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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

2019年3月18日付京都新聞「詩歌の本棚/新刊評」

 ここ最近、ある絵師の絵をテーマに連作詩を書いている。試しに一つ作ってみると面白くなり、いつしか連作になっていた。絵という無言のものに、言葉でぶつかっていく時の解放感。絵の強烈なイメージの力に揺さぶられ、言葉におのずと新たな生命力がもたらされる実感。恐らく詩は詩だけで煮つまるのだろう。他の芸術と向き合い触発されることは、たしかに重要だ。詩が世界へ豊かに開かれ、生命を更新するために。 

  江口節『篝火の森へ』(編集工房ノア)は、神戸三宮にある生田神社で毎年行われる薪能のパンフレットに寄せた、各演目をテーマに書いた詩をまとめた。歴史が浅く、形式も自由でテーマも時代に影響される現代詩によって、「六百年の歴史をもつ能楽の堅固な様式」に向き合った。「能に向き合うには、自分がぶつけたことのない生々しい情念を正面に引き据えざるを得ない。私には最初、これが辛い作業であった。しかし、能のプロットに被せて想を進める方法は、無理なく徐々に内側を開いていくことができて、次第に解放感に浸るようになった」。こうした作者の感慨が逆照射するのは、個に閉ざされたがゆえに現代の情念を表現する力を失った、今の詩の有様だ。

「今は 己が闇に穴居する者/闇と知らず闇を抱えるもの/荒ぶるそぶりも見せず/和らぐ振り まつろう仕種(しぐさ)に//知らず/千筋の糸に巻き取られていく/空見つ 日本(やまと)の美しき緑/幸豊けく みちのくの海/ここに消え  かしこに結ぶ水の泡の/セシウム トリチウム ストロンチウム//もはや土蜘蛛とはできぬ/天降(あも)りましぬ神々の末裔 われらを/何と名づけよう/平らげる武者たちも無き/世の果てで」(「千筋の糸」)

 根本正午『仮象の塔または九つにわかたれたあのひとの遺骸をさがす旅』(書肆山田)は、仏、鬼、罪人の姿を収める大曼陀羅図(だいまんだらず)にならった構成だ。入れ子状の八一の散文詩篇で、「一つの巨きな正方形」を螺旋状に形作る。「日本語の中心にあるうつほを「あのひと」と名付け、周辺を埋めてゆくことによって、その空虚に形をあたえようと試みた」。そうしたテーマと形式が、ひらがなの多用と語の反復により一体化しうねる。句読点なしで延々と続く語りは、シンガポールで子供時代を過ごした作者のどこかに宿っているはずの、熱帯の生命力さえ感じさせる。

「くさりおちた肉は花に食われ千年に一度咲くという青に染まる下着の汚れよりこねあげた子供の親の子供の親の子供の親の子供の親の透明な家にいない父の面影で柱がもえていて塔をつなぐ道にたおれた兵士たちの骨が散らばる広場の皇居のスルタンの祈りの声がひびいてくる七億の色のステンドグラスよりさしこむ生者の世界より声がきこえてくるお父さんとよぶ声がだがなにもこたえることができず(…)」(「1右上の脳」)

『言葉の花火2018』( 竹林館)は、三年に一回のペースで制作される詩集の第七号。関西詩人協会会員の詩(京都の詩人も多数参加)に英語の対訳を付ける。昨秋逝去した佐古祐二氏の詩「親しきひと」は、死に触れ生が思わぬ燦めきを見せた一瞬を、絶妙に捉えた心象スケッチだ。

潮騒が/忘れられた麦藁帽子を洗うたび/真夏の喊声(かんせい)を切れぎれに運んでくる//死と向きあう/とひとはいう/が考えてみれば死は/座っているのだ/私の傍らにそっと/親しきひとのように//その親しきひとが私に語りかける/海が光っている/こんなにも海が光っているね/と――/白い帆に追風(おいて)を孕(はら)んで沖をゆくヨットの影」(全文)

 

2019年2月20日付「しんぶん赤旗」文化面・「詩壇」

  昨年10月詩人・仏文学者の入沢康夫氏が亡くなった。宮沢賢治やネルヴァルの研究、詩集『ランゲルハンス氏の島』『わが出雲・わが鎮魂』などで知られる。1980年代に現代詩の世界に足を踏み入れた私は、「詩は表現ではない」「作者と発話者は別だ」という主張を、当時流行したポストモダンに与するものと捉え、現実に向き合う詩を否定しているといつしか思い込んでいたらしい。

  代表的な詩論集『詩の構造についての覚え書』(思潮社)を再読した。ハッとしたのは、初版の刊行が1968年、つまりいわゆる政治の季節の最中であること。じっくり読み進めると、件の主張の背景にある文脈が見えて来た。かいつまめばこうだ。詩が作者の純粋な表現だとして構造や関係を省みないことが、詩をゆきづまらせている。詩の諸要素の関係を解明し構造をダイナミックなものに鍛え直し、詩を「感受性の新しい容れ物」にして現実と対峙すべきだ―。

  注目したのは以下の内容の箇所だ。構造=「つくりもの」でない詩はない。だが「つくりもの」という観念は「うさんくさい」。なぜなら権力者が「自らの秩序を、それ自体が一つのつくられた秩序であるくせに、自然の秩序の名の下にそれを隠蔽しつつ、広く及ぼし、そしてこれに対立する秩序を構想することを「つくりもの」として人々によって排斥されるようにしむけて来た」から。それに対し詩は、自身の「つくりもの性」を自覚しその可能性を追求することで、支配者の意図をあばきうる。詩の反逆性としての自由と倫理を突きつけうるのだ―。

 『現代詩手帖』2月号も特集を組む。すぐれた詩人の営為を忘れず、その真意に今こそ耳を傾けたい。

 

2019年2月4日付京都新聞文化面「詩歌の本棚/新刊評」

  もうすぐ石牟礼道子さんの一周忌(二月十日)。作家というより詩人と呼ぶべき人だと思う。その言葉は水俣という風土への情愛と葛藤によって、比類なく豊かな生命をもたらされている。詩とは風土と必然的に葛藤するもの。だが詩が葛藤することで、風土は隠し持つ生命を分かち与える。詩人が漁民と苦しみを共にした果てに幻視した不知火海の輝きは、私が知る中で最も深く美しい詩である。

  平塚景堂『白き風土のかたえに』(編集工房ノア)は第四詩集。「白き風土」とは、京都の名高い禅寺院の美術館長である作者が、禅哲学によって透視した京都などの風土の姿でもある。あるいは風土に抗して立ち現れるモダニズムの地平ともいえるだろう。哲学とモダニズムの間で、詩の抒情性を知的にピンポイントで模索している。やや箴言的で難解な箇所もあるが、全体としてモダニズムの空性とでもいうような軽妙さがあり、読者を仏教的な永遠、あるいは時空の氾濫へと誘う。

「昼下がりの 糺(ただす)の森で/見知らぬ男たちが 氾濫している/ガラス窓が たったひとつの瞳孔に/氾濫している//水郷の やわらかな淋しさ/葦原を渡り 季節の果実の変種となり/風の山河に 氾濫する//ああ イセ イズモ スワの/うるわしい真昼野/うるわしい孤絶 白沙 いずみ川/底なしのいずみ 倒れ続ける木立(こだち)/わたしには隠されてある かりそめの めまい/振り向きざまに見た/密林の葬列 そこに そのときに/神々が とめどもなく/見境(みさかい)なく世界を 滅ぼして/氾濫しはじめたのだ」(「氾濫の書」) 

   橋爪さち子『葉を煮る』(土曜美術社出版販売)は、生や死への問いを詩を書くことで煮つめていくかのようだ。観念でなく濃厚な五感や激しい情動の次元で答えを模索する。京都生まれの作者は、いくつかの詩で京都の風土を背景に用い、詩の密度を上げている。古都の陰翳が生死への問いを包み込み際立たせる。京言葉で恋愛の機微を語る物語詩二篇も面白いが、「古武士」のように働き者のミシンへのオマージュ「黒ミシン」もいい。やはり京都の「小間物屋」なのか。「私」は古い黒ミシンの凜とした生き様(?)に感銘し、店を出る。

「小間物屋を出ると/市役所前の丈高く色づいた銀杏の古木が通りを/走りゆくメタリックな車体を次つぎ黄に染める/威風堂々/銀杏と百年の黒ミシンが重なって//たがいに繋がりを持たないものが/ふいに音律のように繋がるとき/おおきく温かな手がくいと肩を抱くかのよう//風紋の果てのドレープ袖/ミシンの下糸釜と女性器の酷似/落日の金波と坊様の背をまたたく望郷/それより/仏さまの螺髪と宙(そら)の運行の悠久な右螺状//いいえ/螺状というなら糸こま/糸こまというなら やっぱりキドの/傷にまみれた武骨な黒ミシン」

 沢田敏子『サ・ブ・ラ、此の岸で』(編集工房ノア)は、戦争のために異郷で生きざるをえない人々に思いを寄せながら、自身の家郷のかけがえのなさを、懐かしい事物をなぞりつつ描き出す。例えば梅の湾曲した古木は、「くらぐらと畑に立つ」祖母のいとおしい姿と根源的に重なるのだ。

「梅の中に母が/いるとは知っていたが/梅の中に祖母も/いたのだった/生涯その足で踏み固めたような庭(おもて)に/梅の実やしその葉を干しながら/おもいをはなつように/こごんだ腰をそらせたものだ/おうめさ――のふたつの乳房は/地を見るばかりだったが/豊饒多産をなかだつ梅は/くらぐらと立つ体軀から/清浄(しようじよう)の花をひらくのだった」(「うめ」

2019年1月22日しんぶん赤旗文化面「詩壇」

『村上昭夫著作集(上)ー小説・俳句・エッセイ他、北畑光男編』(コールサック社)が、没後五十年目の昨秋刊行された。

 村上は一九二七年岩手生まれ。敗戦間際十八歳で渡満し四六年帰国。翌年郵便局員となり組合機関誌に作品を発表。五〇年結核発病後は療養所で詩や俳句を創作し、六八年『動物哀歌』でH賞を受賞するも、同年四十一歳で病没した。 

  短編「赤い戦車」は鮮やかな反戦小説だ。日中戦争初期、町に数台の戦車がやって来る。教師間野は図画のために生徒達に見学させる。「これで悪い支那兵を、皆んなやっつけてやるんだ」と興奮する間野に、貧しく成績の悪い武一は「先生、支那人てそんな悪いんだべか」と無邪気に笑いまごつかせる。翌日皆が立派な戦車の絵を提出するが、武一だけは赤い戦車の絵だった。「赤いタンク画いたって可笑(おか)しくない」、「あれはな先生、支那のタンクだ」。衝撃を受けた間野は「少し足りない変った」子と決めつけ、やがて武一のことを忘れてしまう。

  敗戦後武一の戦死を知った間野は、赤い戦車は武一自身だと覚る。武一は不幸な家庭に育ち皆に馬鹿にされていた。「今に中国の人達を殺戮するという戦車に、閉じ込められていた自分の小さな苦悩を塗りつぶしたのではなかったろうか」。赤い戦車は「どうにも仕様がないものへの小さな抵抗」だった。間野は絵を燃やし涙を流し、今の教え子逹を想う。平和への思いに赤く燃える戦車の夢で小説は終わる。

 敗戦後の満洲体験を素材とする長編「浮情」も、虐げられた中国人に寄り添う。長い闘病生活は真実を見る「死の眼鏡」をもたらしたという。近刊の下巻(詩)も併せ、詩人の曇りなき眼差しに学びたい。

年初に湧いた「詩論」

  「もう一つのこの世」あるいは「もう一つの秩序」を確固と、そして燦然と、この世の内で描き出すことーそれは、もっとも美しい抵抗ではないだろうか。詩であれ生き方であれ、 この世にまつろわずあの世に逃避することもせず。「もう一つのこの世」は詩人がうたわなくては存在しないが、ひとたびうたわれればそれ以外は存在しない、鮮烈な情景であるー。

 

   石牟礼道子さんの以下の文章からそんな「詩論」が湧きました。おそらく詩とは、人の心の深くに隠されている物や情景の輝きを探し出していく旅。言葉という祖代々の無限の想いを乗せている舟に身をあずけて。

 

  不知火海は光芒を放ち、空を照り返していた。そのような光芒の中を横切る条痕のように、夕方になると舟たちが小さな浦々から出た。舟たちの一艘一艘は、この二十年のこと、いやもっともっと祖(おや)代々のことを無限に乗せていた。それは単なる風物ではなかった。人びとにとって空とは、空華した魂の在るところだった。舟がそこに在る、という形を定めるには、空と海とがなければならず、舟がそこに出てゆくので、海も空も活き返っていた。

(石牟礼道子苦海浄土』第二部)

2018年12月24日付「しんぶん赤旗」文化面・「詩壇」

  齋藤貢『夕焼け売り』(思潮社)は、今も見えない放射線の恐怖と向き合う核被災地の痛みを、類いまれな詩的幻想の力で伝える。聖書の楽園喪失と一粒の麦としての「ひと」のイメージが作り出す不思議な時空は、古代でもあり未来でもある。訥々とした語りは原初の闇をかき分け歩むようだ。光は見えないが、光を求めてやまない悲しみがそれ自体光となり、こちらの胸に突き刺さる。
 表題作「夕焼け売り」は無人の町が舞台だ。
「この町には/夕方になると、夕焼け売りが/奪われてしまった時間を行商して歩いている。/誰も住んでいない家々の軒先に立ち/「夕焼けは、いらんかねぇ」/「幾つ、欲しいかねぇ」/夕焼け売りの声がすると/誰もいないこの町の/瓦屋根の煙突からは/薪を燃やす、夕餉の煙も漂ってくる。」
  もはや想像するしかない帰還困難区域の夕方の幻想的情景である。あの日からそこでは夕日は沈むことがない。なぜなら眺める人がいないから。美しい夕焼けは眺める人がいてこそ存在するから。そして夕焼けに続く夕餉や団欒も失われた。原発事故はそのような人間的な時間を「奪った」のだ。今も帰れない住民は「夕焼け売りの声を聞きながら」「あの日の悲しみ」を食卓に並べ、失われた夕餉を想い続けている―。
  原発事故という不条理を一方的に背負わされた被災者の、声なき怒りと悲しみ。福島に住む詩人はそれを痛切な暗喩で突きつけている。読む者がそれをしかと受け止めることは、核被災の痛みを分かち合うことに繋がっていくはずだ。
「ひとであるためのことば」「ひとであるために選ぶことば」を詩人は探し続ける。夕焼けという人間の時間を呼び戻すために。

12月18日辺見庸講演存在と非在/狂気と正気のあわいを見つめて—『月』はなぜ書かれたのか」

昨夜、新宿・紀伊國屋ホールで行われた辺見庸氏の講演「存在と非在/狂気と正気のあわいを見つめて『月』はなぜ書かれたのか」をききました。


最新刊『月』刊行を記念しての講演です。


風邪による熱を押しての二時間半、氏は会場に集った人々を、「友人たち」と呼び、たしかに個というものの存在の深みから体温のある声を放ってくれました。辺見さんの声はいいなあ、言葉に見捨てられていない声がここにあるなあとあらためて感じました。


(今回はメモを取らなかったので、以下は曖昧な記憶からおのずと触発されたものを、思いつくまま書いていきます。講演内容の正確な紹介ではありません。)


『月』は2016年夏の相模原障害者施設殺傷事件に衝撃を受けた氏が、おのずと書き出していたというフィクションです。講演の最初のほうで辺見さんは「私たちもみな返り血を浴びている。私は血煙の内側で書きたかった」と言われました。本の表紙に月という文字から禍々しく散る血しぶきが、脳裏に浮かびました。


この小説を読み始めた時私は、レヴィナスの哲学などをも語る「きーちゃん」の饒舌な語りに、作者自身の思念を濃厚に感じ、現実の被害者との距離をどう考えたらいいかやや戸惑いもしました。


しかし辺見さんは、主人公の「きーちゃん」は愛を込めて描いたと言います。その愛というのはたしかにあって、私も読み進めるうちに、おのずと違和感は消えていきました。


事件についての作者のとぎすまされた解釈が、きーちゃんの「思惟」に込められています。ふたつは一体化しているのだと言ってもいいのではないでしょうか。


きーちゃんの饒舌な「思惟」は、かつて氏の死刑反対をつよく訴える講演で聞いた、「人は最後まで思惟する。その思惟を奪うことはできない」という主張の反映でもあるでしょう。昨夜の講演でも死刑の問題に触れられていました。


きーちゃんは、人に伝わる言葉を発することが出来ない。何かを伝えようとすると、動物の叫びのようになってしまう。しかしきーちゃんは「思惟」をつづけている。鋭敏な感覚と想像力をもって。人間の心をこえた存在の心のような深さと広がりで。


事件の被害者は、講演でも語られたマリオ・ジャコメッリの写したホスピスの老人たち、薄命で異様なすがたのカゲロウたち、死刑囚などと同じく、最も弱いもの、消えゆくものたちです。しかしかれらは見ています。「視線を下に下に下げて」かれらと見つめ合うこと。そこには「死」があります。「死が訪れて君の目に取って代わるだろう。」と、ホスピスの患者を撮ったジャコメッリの写真のタイトルにあるように。その時私たちもまた障害者であることを初めて思い出すでしょう。


なぜ私たちは相模原の事件について「思惟」しないのでしょう。事件の被害者である最も弱い者たちの「思惟」を感受出来ないのでしょう。相模原の事件の後で喧伝された「命の大切さ」「誰しも生きる権利がある」という言葉はむしろ酷薄で偽善で冷たいのだと、辺見氏は講演で言いました。


「「ヨシ」という言葉をご存知ですか?」そう、「与死」。この国の社会は脳死を判定し、出生前診断をし、死刑を執行する「与死」社会なのだと。それは深沢七郎が「楢山節考」で描いた、後続世代のために乏しい食糧を譲り渡すため、ある年齢を過ぎた老人は山に捨てられるという共同体と、何ら変わりはないと辺見氏は言います。老人なのに歯があることを恥ずかしく思い、自らを歯を砕くというあの主人公の老女は、排除を恐れて自らを傷める私たちのすがたでもあるのです。


「何故在ったか。無くても良かったろうに。何故在るか、無くても良いだろうに。」


辺見さんがつよく影響を受けたという中島敦「セトナ皇子」の一節。存在というものがじつは、意味とは関係なく仕方なくあってしまうものだという、若くして亡くなった作家の強烈な存在論です。私たちは共同体によって与えられる意味によって死をもたらされている。しかし無くても良いのに在るのはなぜか、というこの存在論に突き落とされれば、与死の社会は揺らぐ。その裏腹としての「命の大切さ」といった酷薄な言葉は消える。最も弱い者たちの思惟そのものを表現する新たな言葉が立ち上がる。


講演では次の石牟礼道子の言葉も語られました。辺見さんは石牟礼さんからも影響を受けたそうです。


「原爆のおっちゃけたあと一番最後まで死骸が残ったのは朝鮮人だったとよ。日本人は沢山生残ったが朝鮮人はちっとしか生残らんじゃったけん、どがんもこがんもできん。死体の寄っとる場所で朝鮮人はわかるとさ。生きとるときに寄せられとったけん。牢屋に入れたごとして。仕事だけ這いも立ちもならんしこさせて。」


「昨三菱兵器にも長崎製鋼にも三菱電気にも朝鮮人は来とったとよ。中国人も連れられて来とったとよ。原爆がおっちゃけたあと地の上を歩くもんは足で歩くけんなかなか長崎に来っけんじゃたが、カラスは一番さきに長崎にきて、カラスは空から飛んでくるけん、うんと来たばい。それからハエも。それで一番最後まで残った朝鮮人たちの死骸のあたまの目ン玉ばカラスがきて食うとよ。」

 

(石牟礼道子「菊とナガサキ被爆朝鮮人の遺骨は黙したまま―」)


今問題となっている徴用工訴訟、ヘイトスピーチ朝鮮学校無償化除外などの、あまりに残酷な実相がここに表現されています。日本の共同体は、少数派を排除する。「与死」する。辺野古の海にも、平和憲法にも、多数派とその傲慢で無思惟の「意味」は、こともなげに死を宣告する。そして殺されていく少数派の痛みをかえりみることはありません。なんとおぞましい「人間」社会と国家が続いて来たのでしょうか。


昨夜の講演のしめくくりに、辺見さんはどんなに醜くても怒り続けたい、と仰った。その言葉は、ともすれば多数派の共同体の論理にも、あるいは時には少数派自体にも映り込んだ共同体の論理にも負けて微笑んでしまいそうな、排除を恐れて怒りを手放してしまいそうな私に、とても大きな勇気をくれました。


個の怒りを手放さない。そこから個の思惟と言葉を生み出し続ける。デモや集会にはこれからも自分なりに参加しますが、個と個の関係を蘇生・創造することを願って行動していきたいです。


以上昨夜の講演の余熱の中で、雑駁でも発信しようと思い、書いてみました。NHKのカメラも入っていましたので、そのうち何らかの形でこの講演は放映されるでしょう。

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