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詩空間

河津聖恵のブログ。この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

11.12のためのメモ──または「詩と政治」についての覚え書き

昨日お知らせした
11月12日は「東日本大震災にとって詩とは何か」
という少し捻ったタイトルで話します。

今こんなことを考えています。
まだしっかり固めていないので
かなりうろんなメモ的なものになりますが
当日の導入はこれとさして変わることはないと思います。

まず、タイトルを捻ったのはなぜか、ということですが
もちろん「詩にとって大震災とは何か」では余りにも傲慢ですね。
一方前者のタイトルでは詩なんて木っ端微塵であるでしょう。
だからといって今よく言われるように「詩は無力だ」といってのけてしまうとすれば
大変違和感があります。
「無力」という権利は読者にはあっても書き手にはないはずですから。

今詩の「無力」を唱える詩人たちからは、
大げさかもしれませんが、私は無言の政治的圧力を感じざるをえないのです。

例えば現在、詩と状況を考える上で
堀田善衛の『方丈記私記』は面白いと思います。
堀田は今と同様に次々と大震災に見舞われた大乱世に生きた鴨長明から
遥か八百年の時を越えて戦後へと続く日本人の無常観や優しさを、
「無常観の政治化」と名づけています。

私はこれはなるほどなあと思いました。
無常観というのは
人をあやつりたい政治家から見れば本当に好都合な人の性であり
あるいはあやつられる側からは
流れに身を任す心地よさを正当化してくれる観念と言えるでしょう。

だってたしかにこの世は無常なのですから。それは否定できないですから。
もちろん
その水の流れを押しかえすところに詩や文学の力があるはずなのですが
日本の無意識においてこの水の流れはかなり強い。

だからこそ無常観はかんたんに政治利用されていくものです。
あるいは民衆が自分の無力を正当化するために
自分の中で無意識に政治利用してしまうものです。

日本には政治であって同時に政治ではないものがある、と堀田は言います。
つまり支配する側と支配される側との健全な民主的な関係がない、ということなのですが、
それはどのような不健全さなのかといえば、たとえば、

戦後の焼け野原で、天皇に自分たちのふがいなさを謝る人々の姿を見て、
「かくまでの優情があるとすれば、日本国の一切が焼け落ちて平べったくなり、上から下までの全体が難民と、たとえなったにしても、(略)体制は維持されるであろう」
と痛感させられたこと。

さらに、
「人々のこの優しさが体制の基礎となっているとしたら、政治においての結果責任もへったくれもないのであって、それは政治であって同時に政治ではないということになるであろう」と絶望したということ。

つまり日本人のその「優しさ」の本質が無常観なのです。
それはくりかえし感じさせられれば、やがてはデモに行く意志をも失わせてしまう負の力がある。
何度も無常観をもよおす言葉に接していれば人は必然的に美しく力を抜かれていく。
デモも出来ないほど「優しく」なっていく・・・。

そういう意味で、少し強引かもしれませんが
今詩の無力を唱える詩人もまた「政治的」だと言っても過言ではないでしょう。

そもそも大正期以来の日本の現代詩は
「詩は非政治的であるべきだ」
という不文律を作り上げてきたと思います。

その根底には近代化にもかかわらず依然として前近代的な日本社会に対する
潜在的な恐怖や嫌悪があったはずです。
そして戦後はどうだったかといえば
やはりその恐怖や嫌悪は濃く残っていたと思います。
とりわけ主流となっていった戦後詩においてはそこに
民衆運動に対する屈折した反撥と
ポストモダン的な「美学」も加わっていきました。

その結果言ってみれば
美を政治化するのではなく、政治さえをも美学化(無常化)する、
という詩の境地が当然なものなってきたのではないでしょうか。

だから詩人は今も昔も、政治問題を詩という上位概念から語り下ろしはしても、
決して同じ次元で向き合わすことはない。
大切なのは無常の「美学」だからです。

しかし「詩と政治」という問題は
つねに詩の外部から問われないではすまされないし
いくら無視しても詩にとってつねに存在の不安を感じさせてやまない影を落としてきたはず。
だから強烈な美意識と無関心による正当化を
詩論として屹立させてこなくてはならなかったわけです。

けれどそうした非政治性を一概には否定できないと思います。
詩は何を表現しようと、最終的には美的価値判断に晒されるからです。
美は詩の価値において最高位になくてはならない。
もちろん美は内容によって深められるような、詩固有の美でなくてはなりませんが。

いずれにしても現在の政治状況とは恐らく最終的なもの。、
もはやわずかに残された、状況を押しかえす詩の主体性(ひいては人間の個としての意志)をも
完全に消滅させようとする類のものであるはずです。

美だけがひらひらとした残骸として残っても仕方がない。
とすれば詩人は、日本人の根源をからめとる無常観からもはや身をひきはがし、
突き付けられる死に対し、
一人一人のいのちの肉声が響く空間を切り拓くべきではないでしょうか。