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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

2014/5/19 京都新聞朝刊「詩歌の本棚/新刊評」

2014/5/19  京都新聞朝刊「詩歌の本棚/新刊評」

                            河津聖恵

 四月十七日ガルシア・マルケスが亡くなった。『百年の孤独』の作者であり「魔術的リアリズムの旗手」として知られる作家は学生時代、小説と共に詩を書き始めた。自伝によれば、当時作家を含むコロンビアの人々は「詩の輝きのもとで生きていた」という。「詩は人々の熱情の源であり、生のもう一面であり、あらゆる場所にひとりでに行きわたっている火の玉だった。新聞を開けば、たとえそれが経済欄であっても司法欄であっても、(略)そこには詩がわれわれの夢を担って飛び立とうと待ちかまえていた」、「私たちは詩を信じていて、詩のために死ぬ覚悟ができていただけでなく、(略)『詩こそが、人間が存在することの唯一の具体的な証拠である』と確信していた」(『生きて、語り伝える』)。つまり作家の幻想を育んだのは、詩への確信の深さである。
 四方田犬彦『わが煉獄』(港の人)は、死者への追悼と終末観に満ちた詩集。煉獄とは、天国には行けないが、地獄に墜ちるほどでもない罪を犯した死者が浄化の苦しみを受ける所。作者はその薄闇に死者への思いを投影し、詩的幻想を描き出す。それらは中世や古代のようでもあり、不思議にも現在や近未来のようでもある。一九七五年に殺害された映画監督・詩人パゾリーニへ捧げた詩は、まさに幻想による慟哭だ。

「きみの潰された眼には/椰子と椰子に登る蟹が見える/オアシスでは青布を頭に巻いた若者たちが/静かに驢馬に水を飲ませている/どの泉にも聖者がいる/眠たげな砂の下涸れ河(ワジ)同士が出会うところ/詩の言葉はそこに宿っている/だが きみの眼に飛び込んでくるのは/荒涼として途絶えた道 土埃に汚れた灌木/あちらこちらの壕にちらつく/卑しげな炎//どこにいるのか/ピエル・パオロ、/ぼくの声は届いているのか/敵意の鉄条網に囲まれた地上から/ぼくは呼びかける/きみのところに水はあるのか/炎はいくつ見えるのか」(「壕」)

 浅井眞人『仁王と月』(ふらんす堂)は、仁王と月の幻想劇を、中世の異界の闇を背景に、童話の優しさや説話のユーモアを交えて語る。「月の満ち欠けは仁王の呼吸によって」おり、仁王は和紙で作った「三十種類の月」を、空に適宜かけ換えるのが仕事。山門の中には「月の運行表が貼って」あるが、運行を守らない月は始終仁王を困らせる。両者の戯れは、五感と古典のイメージを動員し巧みに描かれ、読む者のアニミズム的な古層を触発する。

「もうすぐ 涅(ね)槃(はん)会(え)だった/亡(もう)者(じや)の供養にと/仁王は 山にのぼり 黄蘗色(きはだいろ)の月を空に嵌(は)めこんだ/かわりに 光らなくなった古い月を 担いでおりたが/山道を下るにつれて 発色してきた/途中で 木に掛けて 一息入れていると/月は ふいにいくつにも割れ 檸檬色(れもんいろ)の鳥になって四方へ飛び散った」(「弐拾壱」) 

  荒木時彦『drop』(書肆山田)は、全てが満ちているこの世界に、何が足りないのかを突きつめる思考の詩集。「水滴がない ここには水は満ちているが 水滴の音がない」という一行は、満たされるがゆえに生にとって重要な「一滴」を欠く、現在の深刻な枯渇を言い当てる。事実と情報に満たされた世界の水槽で人は、一滴の水のように柔らかな魂、あるいは幻想の煌めきを永遠に待つのだろうか。あるいは待機の一秒を。

「ただ 待っていた/街の喧騒の中/彼は来るだろうか? 柔らかな心を その形を保ったままで」
「水滴/一秒後の水滴/私はその水滴を待っていた 口を開けたまま 何時間経っただろう? ただそれだけの期待」