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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

李英哲「河津聖恵『闇より黒い光のうたを―十五人の詩獣たち』を読む」(2015年3月9日付朝鮮新報文化欄 )

2015年3月9日付朝鮮新報文化欄

河津聖恵『闇より黒い光のうたを 十五人の詩獣たち』を読む

                                    李英哲

 「すぐれた詩人とは、恐らく詩獣ともいうべき存在だろう。危機を感知し乗り越えるために、根源的な共鳴の次元で他者を求め、新たな共同性の匂いを嗅ぎ分ける獣」(「プロローグ」より)――著者がそう名付け、「環」誌上での4年の連載を経て本書に収められた十五人の「詩獣」たち。折しも没後70年が記念されている尹東柱からはじまり、ツェラン寺山修司、ロルカ、リルケ石原吉郎立原道造ボードレールランボー中原中也金子みすゞ石川啄木宮沢賢治小林多喜二原民喜。「詩には、人知れず被った暴力によって傷ついた者たちの呻きがひそむ。私たちが聞き届けようと身を乗り出す時、闇から光へ、あるいは闇からさらに深い闇へと身をよじる獣たちがいる。かれらは私たちに応え、私たちを呼ぶ」――。

 近現代という、偽りの光と黒々とした暗闇の時空をよぎっていったこれら詩獣たちの、孤独、絶望、痛み…そして真の光への渇望。著者はこれらを辿り、反芻し、詩獣たちのうめき声に耳をそばだてる。詩獣たちの身じろぎを、喉の震えを、悲鳴にも似た「うた」の残響を、今日という危機の時代の邪なざわめきのさなかで、感知し、聴きとろうと、自らも「詩獣を追う詩獣」となる。尹東柱の、絶望と希望が明滅するような「星を歌う心」を、現在に嗅ぎ取ろうとするのは、「東柱の時代から伏在してきた真闇が、少しずつ、気付かれないほどの薄さで、再び立ち現れてきている」から。それは人間の根源欲求である「うた」を「それが生まれる以前にことごとく塗り込めてしまおうとする薄闇」である。

 けばけばしい偽物の光が私たちを包み、忘却させ沈黙させる。特定秘密保護法案が可決された2013年の夜の街の、デモの叫びを黙殺で塗りつぶす酷薄な闇。「今を照らす偽りの光を消し、危機の暗がりから過去を見つめたい。この世を覆う不死のシステムがいのちのうたを歌いだすまで」と決意する詩人河津聖恵氏の獣性は、闇に埋められた宝石を探索するような丹念さ、哀切さといとおしさ、そして希望をもって、詩獣たちを探り当て、聴き当て、現在に共鳴させようと、自らの詩念と言葉を研ぎ澄ませる。自身述べるように、詩獣はまた次の詩獣を呼び寄せる。読み進めるほどに、十五人の詩獣たちは互いに共鳴し合う。そして「詩という希望」(本書第�U部)となって交響する。本書それ自体が、詩獣たちの声を今日へと響かせる再生器、共鳴器であり、すなわち本書全体がすでに詩そのもの、「うた」そのものなのである。

 ところで本書を読み始めるやいなや、私は中島敦の「山月記」をただちに思い起こしていた。詩人になりそこねて発狂し、虎と化した李徴もまた(そして中島敦こそは)、まさしく詩獣であったのだと思い至る。李徴は権力からはじかれ、中央政治から脱落した孤高な獣と化してはじめて詩人となり、最後の絶唱をなしえたのであった。闇の中から人間世界を脅かす詩獣の咆哮はまた、言葉を圧殺し、戦争へとひた走っていた帝国を外部からゆるがす他者の声でもあった。中島敦が見据えた闇の根っこには、少年時代を過ごした朝鮮をはじめとする植民地との出会いがあったことを私は幾度となく書いた。そして「山月記」は、朝鮮学校高級部3年生の教科書にも収録されている。権力からはじかれ続けても、暗闇の中でも、虎のように雄々しく、真の声を、「うた」を叫ぶ詩獣であれと、今年もウリハッキョから巣立っていく学生たちに心の中でそう呼びかけている。

 河津氏は、そのウリハッキョの生徒たちを、「光の かがやくことそのものにあるよろこび」(「ハッキョへの坂」)と詠った。まばゆさ、花びらのきらめきにあふれるこの詩は、本書中立原道造にインスパイアされた》花よ、蛇の口から光を奪え!《という叫びと響き合っているはずだ。時代の暗闇たる「蛇の口」から「光」を奪い返さんとする詩人は、「かがやくことそのものにあるよろこび」である彼ら彼女らとともにいる。氏はつい先日も、冷たい風吹く夜の街で、生徒たちとともに朝鮮学校の「高校無償化」を求める署名活動に参加していたという。

                                               (李英哲/朝鮮大学校准教授)