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詩空間

河津聖恵のブログ。この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

2017年5月15日付京都新聞「詩歌の本棚・新刊評」

   桜が満開を迎えた頃、大岡信氏の訃報が伝えられた。二〇〇七年「しずおか連詩の会」に私も「連衆」の一人として招かれ、「捌き手」としての氏の炯眼に蒙を啓かれた。「自分の記憶と知識から書かない」「全体を振り返らない」「直前の相手に集中する」―。氏は「連詩」を提唱し実践して、「孤心」に閉じこもる現代詩を触発した。他者に多くの「チャンネル」を合わせ、「創造的相互干渉の関係を持つ」「うたげ」である「連詩」は、自己が肥大し他者が見えなくなりがちな今、新たな詩の力のありかを示唆すると思う。
 安水稔和『甦(よみがえ)る』(編集工房ノア)は、阪神・淡路大震災の詩を綴りつづける詩人の、二十三冊目の詩集。タイトル「甦る」には死者への祈りが込められる。詩「そして それから」のエピグラフ和泉式部の歌「あはれこの月こそ曇れ昼見つるひやの煙は今や立つらむ」が掲げられるが、大岡氏もこの平安時代歌人の歌の「なまなましい抽象性」による「力ある表現」を高く評価した。「ひや」は「火屋」(=火葬場)。千年の時を超え、詩人は歌人と同じ空虚に身を置きうたう。それもまた「孤心」と「孤心」が響き合う「うたげ」である。
「また/赤い家があらわれる。/あれは火屋(ひや)か/あれは火屋だろう。/今 入ろうとする/あれはわたし。/今 出てくる/あれもわたし。」「また/舟があらわれる。/見つめれば/近づく気配。/波に浮かんで/わたしを乗せて。/わずかに揺れて/それも幻。」「いつも/いつまでも。/波ばかりが/打ち寄せる岸辺。/あれはひとか/ひとの群れが。/歩いている 無言で/涙のようなものを流して。」
 松田伊三郎『晴天の車窓』(同)の前半は、前作をまとめる過程で自然と生まれた断章を、後半は詩を集める。行分け詩は散文的だが、詩でしかつかみえない幻想性が、小説の一場面のような物語性と絡み合い、鮮やかな印象を残す。
「緑の斜面のまん中に/タンポポが一輪咲いている。/狂い咲き、というには静かな一点/ぼくは思わず両掌で花をかこったのだが/春の花と少しも変わらない/ただ花弁がいくらかいびつに思えた/ぼくはそれ以上近づけなかった/花弁の一つ一つが、なにかの昆虫の羽根のように/ぼくの掌となれあうことを拒んだのだ。/花茎は細かった/円くかこった掌の中を/秋の風が抜けていく。/ぼくの腕は透明になって伸び/そのまま緑の土手の上を/加速する電車の速度で引き抜かれた。」(「秋のタンポポ」)
 石内秀典『記憶の淵で』(新月社)は記憶にある他者の姿から、かれらの思いへ想像を馳せる。「記憶から書かない」という大岡氏のスタンスと一見反対だが、ここでの詩と記憶の関係は単純ではない。一九四〇年生まれの著者は、鍬で水を叩き鯉を仕留めた、戦後の父の眼差しの記憶から、戦争を語らせるのだ。
「貧しい食卓へは/決して上らない鯉/その時の/父の一瞬の敏捷な動きを/私は呆然と見ていた/戦場から帰還し/初めて見せた/父の鋭い眼//いつもうずくまる/父の背中/終生語らなかった/戦争の日々を見た/と/思った」(「痕跡」)
 八重洋一郎『日毒』(コールサック社)の著者は一九四二年生まれ。戦争が父祖に与えた痛みに思いをつよく馳せ、闇の底から天に煌めく平和を見上げる。
「夜明け前の涼しい/闇 散り敷く星々の間を抜け出てひときわ明るい/オリオンよ あなたは/やさしさ/天体の美しい平和!」(「闇」)