#title a:before { content: url("http://www.hatena.ne.jp/users/{shikukan}/profile.gif"); }

詩空間

河津聖恵のブログ。この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

『夏の花』その後

現代詩手帖」7月号の詩集評で、時里二郎さんが新詩集『夏の花』(思潮社、5月刊)について書いて下さっています。詩というものの本質から拙詩集の核心にまっすぐに切り込んだ評です。まだ読んでいない方にも分かりやすく魅力的な紹介になっていると思います。以下全文を引用します。
 
「河津聖恵『夏の花』(思潮社)もまた、詩はなぜ在らねばならないかを問う。「原発事故後書きついだ、花をモチーフとする詩」をまとめたものという。表題作の「夏の花」は、福島第一原発ライブカメラが映した、その建物の根元に咲く花を偶然見たことに触発され、その二年後に、原発の被災地の風景を撮った韓国の写真家の写真を見て書かれたものだという。「ここに花は咲くのか なぜ咲くのか」という、言わば詩集全体を通奏するモチーフが書きつけられているのだが、その写真展の原発被災地の風景に、原民喜の「夏の花」の詩句の引用が随所に織り込まれ、広島の原爆の光景が福島の被災地のそれに重ねられる。詩はその引用によって、にわかに黙示録のような垂直的な言葉の深みと、重層的な時空の響き合いとに充ちて、揺るぎない詩の伽藍を現出させている。長い引用が叶わないので、最終連のみを。
「だが死ねない四頭の犠牲獣の/咆哮を聴き届けるのは/獣らを取り巻く忘却の河のほとりに/密かに咲き誇る夏の花だけ/世界の苦い泥についに生まれた/反世界の小さな裸形の花だけ/あるいは花という極小の/世界の追憶、追悼の祈りのすがた」
「花という極小の/世界の追憶、追悼の祈りのすがた」というフレーズに触れたとき、この花に籠められているのは、河津自身が抱く「詩(言葉)」そのもののイメージなのではないかと気づく。詩は「獣らを取り巻く忘却の河のほとりに/密かに咲き誇る夏の花だけ/世界の苦い泥についに生まれた/反世界の小さな裸形の花」そのものなのではないかと。そう思って他の詩を読んでいくと、「こぼれてもこぼれても滅びることなく/滅びる」(「梅に来るひと」)とか、「死ねない花の骸たちはどこまでもぼうっと光り/弧状列島の破線をつらねて/海の無意識深く世界を沈めていく」(「サガリバナ」)といった表現に出会う。「滅びることなく滅びる」花、「死ねない花の骸たち」というのは他ならぬ、河津の書きつける詩の喩のように思える。
 また、『新鹿』や『龍神』で見られた、紀州熊野というトポスやそこに生きる人の魂と、自らの言葉とを深く共振させるという詩法によって、彼女の詩境は深度を増したと思えるのだが、今回の詩集でも、福島や沖縄、そして尹東柱(ユンドンジュ)の故郷といった場所に眠る地霊を巡る詩境には強く心ひかれた。
 詩は、歴史の歪みや社会の不条理にうちひしがれた人々の魂の、言葉には尽くすことのできない思いをどう受けとめればいいのか。それは前述した「ここに花は咲くのか なぜ咲くのか」というモチーフにも重なるのだが、そのような悲しみや苦しみの深さは、自らの言葉(詩)では尽くせない、表せない――そのような断念にもかかわらず「詩はあるのか。なぜ詩は書かれるのか」と彼女は問い続ける。そこから生みだされたのが、他者の魂に寄りそうこと、言葉を呑み込んで、ただ自らの魂がそれらの魂とともに在りたいと願い、その声を聞き取ろうとするひたむきな姿勢が、われわれには聞こえない魂の震えを感受する。そこから〈共振〉の詩学とでも言うべき河津の詩が生まれているのだ。
「一つの島にいながら/無数に点在する島を内臓に感覚する」(「サガリバナ」)―河津の詩は、場所(トポス)と、そこに生きた(生きる)人や生きものに感光した身体をとおして、「ここに詩はあるのか、なぜ書かれるのか」を問い続ける。」
 
「〈共振〉の詩学」とは、まさに我が意を得たりという思いでした。
時里さんに心から感謝です。
 
今流動しつつ凝固していく世界の表層に身を置きつつ、
「魂の震え」を感受するために言葉の五感をひらいていくこと。
それが『夏の花』以降の自分のテーマです。
一つの詩集の歳月を通過して、次の詩世界が見えてきました。
 
なお、酒井佐忠さん(「毎日新聞」」)、ピョンジェスさん(「朝鮮新報」)、細見和之さん(「神戸新聞」)からもそれぞれに的確な評を頂いています。この場を借りて御礼申し上げます。