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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

若冲ゆかりの二つの寺へ

先週と今週の土曜日、若冲ゆかりの二つのお寺へ行って来ました。

 

一つは宇治市にある黄檗宗の本山萬福寺です。インゲン豆にその名を残す中国僧隠元が開基です。

 

中国的なお寺に特徴的な、端がはねあがっている屋根が目を引きます。建物自体からどんな重い俗念も持ち上げてやるぞ!という威風を感じさせます。ここで絵師若冲は、渡来僧から悟りを得た証としての道号と僧衣を貰ったそうです。

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若冲萬福寺印可を受けたのは、錦市場の危機を救おうと三年間走り回った直後。きっとその間自分の中に生まれた怒りや俗情を、萬福寺で僧から教えを授かることで、消したいと思ったのかも知れません(ちなみに若冲自身が書いた日記などは残っていません)。

 

しかし絵師の純粋さに打たれて印可を授けた渡来僧は、その二年後に亡くなります。その死を悼み、若冲は石峰寺に石像を作り続けたそうです。

 

私が訪れた時はちょうど昼下がりで、拝観者は少なかったです。しんと大きな魚版が吊り下がり、回廊が複雑に続いているお寺の時空は、不思議に解放的でどこか海の気配を感じさせました。恐らく雲水たちが摺り足で駆けて艶めいたチーク材の廊下の感触を足裏に感じながら、おのずとこんな場面を想像していました。

 

三年間絵筆を握らなかった若冲の白い蓮のような手のひらに、ふうわりと僧衣が載せられる。そして渡来僧と若冲はまなざしを深い信頼の中で静かに交わらせる。そんな一瞬が、この空間にきっとあったのだとー。

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もう一つは、京都・伏見区桃山町政宗(境内は伊達政宗の居館跡)にある、海宝寺です。

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 かつては上述の萬福寺の禅師の隠居寺だったところで、「普茶開祖道場」と呼ばれ普茶料理で知られます。電話したら、お寺の奥様が待ってて下さり、快く内部を案内してくれました。

 

ずっと見たかった若冲の「筆投げの間」をじっくり拝見することが出来ました。

 

天明の大火で焼け出された若冲は、それまでは好きで絵を描いていたのに、住む家もなくし友人宅を点々とし、絵で糊口をしのがなくてはならなくなったそうです。自宅にはたくさんの作品も焼失し、そのショックで脳卒中にもなってしまったといいます。そんな自分を鼓舞し震える筆先で、73歳の若冲はここで障壁画の大作「群鶴図」を描いたのです。

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 その墨絵はもうここにはありませんが、画集で見ると、画面全体に生気みなぎる動植綵絵とは違い、余白を多くとった、繊細ながらも寂しさの滲む印象もあります。

 

二つのお寺を訪れてみて、あらためて思いました。若冲の謎めいた生涯の時間は、その絵に今も流れていて、鼓動している。そして京都という町は、彼が呼吸していた250年前の時空の気配を消し去ってはいない、と。

 

たぶん絵師も見ただろう中庭の木斛の葉が、風に揺れ、秋の日差しに静かに照り輝いていました。豊臣秀吉の遺愛の手水鉢や足利義満愛用の魚版もまたそこにそのままあって。

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 絵師がいなくなった後も、そのまなざしは、ずっと生きつづけているのではないでしょうか。その絵を愛する者たちのまなざしと共に。