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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

『三島由紀夫未公開インタビュー』続


前回のブログ記事で『三島由紀夫未公開インタビュー』を話題にしましたが、憲法九条についての作家の発言を、ご紹介しておこうと思います。

 

今折しも総選挙で、各党の憲法に対する考え方も、大きな争点になっています。

 

三島由紀夫の発言は、もう45年も前のものですが、決して古びてはいないと思います。むしろ、偽善という、戦後の日本人にとって最大の急所を突く観点から九条を問うというのは、新鮮でハッとさせられます。

 

インタビュアーのベスター氏に、「現代の日本の社会で特にお嫌いなところは」と問われた作家は、きっぱりと「偽善ですね。ヒポクリシー。」と答えます。そして西洋は立派な偽善の伝統があるが、日本には偽善の伝統がない、と述べた後、日本が偽善的になったのは最近かと問われて答えた箇所を引用します。

 

三島:戦争が済んでからひどくなった。ものすごくなったと僕は思うんですね。
ベスター:そういう日本人の偽善は特にどういう面で・・・・・・。
三島:平和憲法です。あれが偽善のもとです。僕は政治的にはっきりそう言うんです。昔の時代には、日本人はみんなうそばっかりついていましたよ。やっぱりうそはついていました。いろんな偽善的なことも言ったでしょう。だけど、それは伝統的なモラルの要請だった。つまり、ここではうそをつかなければいけない。あの方に対して本当のことを言ってはいけない

 

そして「つまり、うそというのは思いやりですよ。偽善というのはセルフサティスファクションだと僕は言うのです。」とも語っています。

 

さらに、ヤミ食糧取締法を正直に守っていた裁判官が栄養不良で死んでしまったという話の後で、九条に関して詳しく見解を述べています。


「法律か死かという問題は、ソクラテス以来の一番の大きな問題です。法に従うか死ぬかということは、僕は人間社会の一番の本質的な問題だと思うんです。そうすると、日本の憲法を本当に文字通り理解すれば、日本人は絶対に死ぬほかないんです。つまり、自衛隊なんてあってはいけないんです。つまり、日本で今やっていることは全部憲法違反です。僕はそう思いますよ。それをみんな現実として認めているけど、政府のやっていることも、誰のやっていることも憲法違反です。ですから、死なないために我々は憲法を裏切っているわけですよ。
 そうすると、ヤミ取締法と同じで、法律というものがモラルをだんだんにむしばんでいくんです。我々は死ぬのは嫌だから、仕方がないから抜け道で生きていくんだ。それはソクラテスの死と反対でしょう。ソクラテスのような死に方をしたのがその裁判官で、偉い人ですね。だけど、人間はみんなそうやって死ぬわけにはいかないんです。生きなきゃならない。だから、今の憲法では、僕は正当防衛理論が成り立つと思うんですよ。死なないために今の憲法の字句をうまくごまかして自衛隊を持ち、いろんなことをやって日本は存立しているんですね。日本はそういう形で何とか形をつけているんです。でも、それはいけないことだと僕は思うんですよ。人間のモラルをむしばむんです。
 理想は理想で、僕は立派だと思う。僕は、憲法九条というのが全部いけないと言っているんじゃないんです。つまり、人類が戦争をしないというのは立派なことです。平和を守るということは立派なことです。ですが、第二項がいけないでしょう。第二項がアメリカ占領軍が念押しの規定をしているんですよ。念押しをしているのを日本の変な学者が逆解釈して、自衛隊を認めているわけでしょう。そういうようなことをやって、日本人は二十何年間、ごまかしごまかし生きてきた。これから先もまたごまかして生きていこうと思っているのが自民党の政府ですね。
 僕はそういうことは大嫌いなんです。人間がごまかしてそうやって生きていくというのに耐えられない。本当に嫌いですね。それだけのことです。それはモラルの根底的なところで、どこかでごまかす。そういう法律があるにもかかわらず、人間はこういうことをやっている。」

 

「みんな人生を楽しんでいるでしょう。僕、そういうことはみんな嫌いなんです。ちゃんと楽しむべき理由があって、楽しむことがジャスティファイされて、そして生きているならいいですよね。」

 

「だって、憲法は日本人に死ねと言っているんですよ。生きているのは、もう既にジャスティファイそれていないじゃないですか。」

 

他の著作でも、憲法九条の遵守は、日本人の玉砕であるというように書いてあるのを読んだ覚えもあります。自衛隊を持たないなら死ぬ覚悟で持たない、そうでなければ憲法を改正してきちんと軍隊として持てるようにする、ということですね。

 

そうすると日本人が生きるためには後者、つまり憲法改正をすることが必要になるわけですが、三島由紀夫の主張する憲法改正は、自衛隊が軍隊となり、そのことで日本の文化と伝統を取り戻すこと、そのためには天皇が直接軍隊に刀を授けるというようなことも必要になっていきます。いわば復古的で危険な改正に行き着くわけで、やはりここまで来ると作家と読者である私自身の間に深淵がひらけるのを感じざるをえません。

 

しかし不思議なのは、そうしたある意味で自己放棄するほど大きな結論をふりかざす作家が、もう一方ではきわめて繊細に、言葉に対して誠実であることを手放さないことです。

 

「偽善というのは、言葉についても言えることですね。「平和」と言えば、その「平和」の内容が何でもみんな「平和」でいいと思う。その内容は問わないんです。みんな言葉に寄りかかって、その言葉で主張したり、戦争したり、論争したり、けんかしたり、殴り合ったりしているんです。日本人全部が。ジャーナリズムやマスコミはその言葉さえ出せばいいんですから、あと、内容なんか構わないんです。僕は、これが本当に今の日本語の頽廃の一つの原因だと思いますね。」

 

「自分のスタイルで主張する以外に、思想ですら主張できなくなっているんです。それは、僕はある意味では、思想ですら文学というものだと思いますね。そこまで行っていない思想家はみんな非常に浅薄ですよね。僕は文体でしか思想が主張できないと感じるんですよ、ある意味でね。難しい時代に来ている。」

 

憲法改正という大きな主張と、言葉という小さなものへの繊細さと誠実さの主張。もちろん両者は互いに深く関わり合っています。そもそも作家が出発したのは後者=言葉によってでした。戦前は日本語という言葉の魅惑によって育てられ生かされた。それゆえ一層戦後は偽善に蝕まれていく言葉の洪水の中で苦しみました。

 

作家が、やがては肉体によって言葉から解放されていったということ、戦後腐敗していく人間たちの中で、自衛隊員に魂の純粋さを見出したことも、考え合わせなくてはならないと思います。大きな主張と、繊細で両義的な言葉と思考が渦巻き会う。私にはそれが、人間というものの混沌と矛盾の宝庫に思えるのです。

 

いずれにしても、今の安倍政権が主張する自衛隊の明記は、「檄」があってはならないこととして述べていた、「自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終る」という事態を実現してしまうに違いありません。そして魂を手放したこの国は、無限に武器を買わされていくことでしょう。

 

「魂がしっかりしていなければ、いくら武器を持っても何にもならないと思う。国民一人一人が断固としてこれを守るという気持がなければ何にもならない。武器より先に魂の問題であって、極端にいうならば、武器は日本刀でいい。」(「栄誉の絆でつなげ菊と刀」)