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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

1月15日付京都新聞朝刊文化欄 「詩歌の本棚・新刊評」

   日本の戦後詩は一九四七年、詩誌『荒地』創刊から始まったとされる。その代表的な詩人北村太郎の詩集『港の人』(一九八八)が、昨秋出版社「港の人」から復刊された。三十年後の今読んでも(あるいは今だからか)、詩を書くことで廃墟を生き抜いた詩人の鋭敏な生と死の感覚が新鮮だ。死に包まれ生がある、人間は反自然の存在だ―そうした重厚なテーマを伝える言葉は繊細で柔らかい。生への愛おしみを静かに伝えて来て、深い感銘を受けた。
   尾崎与里子『どこからか』(書肆夢ゝ)は、母の病と死を体験した作者が、その濃密な時間を詩として昇華することで、少しずつ悲しみを解き放っていく。作者は琵琶湖畔に棲むが、死から生へ向き直る、あるいは死が生へ受容されていく心情の変化は精緻で、まさに湖の色の変移のようだ。母の死までを描く第一部は、時々の状況を描く散文詩も含み、悲しみを乗り越える第二部は行分け詩群である。それぞれ一節ずつ引く。
「病院のすぐ脇を新幹線の明るい窓が光る帯になって何度も行き過ぎ 母の細い指はこわばったまま 一層白さを際立たせている/白く泡立つ酸素 一滴ずつ落ちてくる水 脈搏 尿量 母はとうとう一枚の紙を埋める数値としてだけの存在になる 私は花柄のタオルケットを母の体に着せかけ 小さなアザラシのぬいぐるみに痩せて硬い母の腕をのせ 現実の周辺を柔らかな感触で覆おうと躍起になる するとヘモグロビン4・9の母は淋しそうに大きな欠伸をするのだ」(「冬の人」)
「みずうみ と/私たちが呼ぶのは/むきあったときに はらりとほどけ/水の匂いを移してくるものだ/つつましく後ろ手にかくしているけれど/深いいのちを幾層にも含んで/冬なのにあたたかい/湖辺の木々に冴え冴えと包まれている/湖中では新鮮なアナベナがさわさわと美しく増殖していく」(「くちびる」)
 藤本真理子『水のクモ』(書肆山田)は、古語の豊饒な知識を駆使し、音韻を共振させて意味やイメージを浮遊させることで、詩の空間を言霊のざわめきに返そうとする。詩だけでなく短歌や俳句も織り込まれ、詩集全体が張りめぐらされたクモの巣のようだ。作者が捉えようとするのは、生と死の「摂理」なのか。
「水玉模様になりたかった 猫/蛇口からしたたる一滴をひたすらに待って/キッチンの水道に寄り添う形の――まどか/夜となく昼となく――まだら/(中略)/揺れる一瞬/それが生の長さ/踏み止まる一点/それが生の重さ//と気付いた時には消える――花火/夜空に咲き誇った、と見る間に/瞬時にほどけて/熱く落ちる――しずく」
 魚野真美『天牛蟲(かみきりむし)』(iga)は、大阪に住む若手詩人の第一詩集。巧みな語りと生命力豊かなイメージで、現代の表層下に押し潰されうごめくものたちの、濃密な生をうたう。商都の「わたし」が金閣寺を冷ややかに見やる「金(きん)ください」や、都市の亀裂から怨念のように湧く虫を描いた「腐赤蟲」にも瞠目したが、ここでは新年に相応しく勢いある「いやー」全文を引く。
「あーいやーいやいやー/なーいやーいやー/九〇年代POPS全盛期世紀末救世主伝説/無意味で脳天気なラヴァーソング/竹馬に乗れた時の歓び今、再来/踊るカーテンの中でリコーダーアンサンブル/烏骨鶏小屋の卵をお道具箱の中で割り/計算ドリルの残ページを破り捨てる/我、此処に大地讃頌を奏でん/きらーいやーいやーいやー/たーりないやいーいやー/取るに足らないやーいやー/ハッピーニューイヤー、わたし。」