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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

この青からより青なる青へ 歌集『青の時計』(荒川源吾)書評 ・「思想運動」2月1日、1015号

   白地にタイトルと名前だけを刻印したシンプルで美しい表紙。前後の見返しには著者の住む町なのか、郊外の濃青の夕暮れの写真が刷られている。どちらもこの歌集の内容を見事に象徴する。前者は集中の歌「立つものが全て時計になる真昼晴天(はれ)の雪野に青く正午(ひる)をさす影」、後者は「暮れて尚空のあかきはひんがしの暗きに兆す空の陣痛」を連想させる。光と闇、生と死、時間と永遠―それら根源的な裂け目に、裸形のたましいで触れた痛みと歓びから生まれた歌々がここにある。まさに「夕雲を葡萄百顆のいろにそめ日は熟れ闇の大壺に落つ」の、「百顆」の生命となって迫ってくる。
「青の時計」というイメージの端正な美しさとそれゆえの未知の痛覚。それをどこか感じつつ読み進めると、「立つものが全て時計になる」の「時計」とは、作者にとっての短歌の立ち姿そのものなのだと思えてくる。どの一首にも唯一の生の時間が、樹液のように静かに立ちのぼっている。だが短歌とはそもそもそのようなものだったのではないか。それは記録でも記述でもなく、それは虚空の青に吹きさらされる人間の、より美しき世界への祈念なのだということを、この歌集は鋭く教えてくれる。空の高みでもあり地の底でもあり、受容でもあり拒絶でもある青に、木々のごとく吹きさらされる者だけが、そこに隠された声々を聴き取りうることを。「詩歌とふ迷路にあれば聞え来る語られなかつた底ごもる声」。
  声の主は、非業の死者でもあり石でもあり、火でもあり風でもある。あるいは声は森羅万象のまなざしとなり、死を意識した作者の裸形の魂に、今こそうたえとかきたてている。この深みから別の深みへ、この青からより青なる青へ、と。
 自己、他者、社会、自然―『青の時計』はそれらに私たちが向き合う時間を、生の痛みと歓びとして深めるよすがとなる稀有な歌集だ。白を汚しながら読み返し、白に書き込みつづけ、私自身の「時計」にしていきたい。 

 

*本歌集は私家版です。「思想運動」小川町事務所で取り扱っているとのことです。
 

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