#title a:before { content: url("http://www.hatena.ne.jp/users/{shikukan}/profile.gif"); }

河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

2018年3月5日付京都新聞「詩歌の本棚/新刊評」

   金時鐘佐高信『「在日」を生きる』(集英社新書)は、日本語が母語の者が意識しにくい、日本語に潜む負の力を指摘する。五十音による発音の排他性と、情感に均されることによる批判精神の欠落だが、現代の書き手はそうした問題と無縁だろうか。むしろそれは新たな相貌で見え隠れしていないか。植民地下朝鮮で自己形成した金氏の眼差しは厳しい。「詩とは行き着くところ、現実認識における革命だと思います。現実を認識する、その意識すらぼうっとさせてしまっているのが今の日本的風潮ではないでしょうか。だから戦前回帰がわりと容易なんですよ。」
 崔龍源『遠い日の夢のかたちは』(コールサック社)の作者の父は恐らく金氏の世代。同じく朝鮮で生まれ育った。作者は日本人の母への愛とは対照的に、幼時から父への愛憎に引き裂かれていた。だが父の死は愛(サラン)による転回をもたらした。「詩を書くからには、愛さなければならない。生きることを、この世界を。」(あとがき)とあるように、詩集全体に生への愛が込められる。愛とは戦争と悲しみのない世界への強い希求だ。大震災をモチーフとする「三・一一狂詩曲(ラプソディー)」から。
「北斗はうたうな/宙宇をさまよう死者たちへの挽歌を/オリオンは弾くな/生き残った者たちの悼みやすすり泣きを/それぞれの死と生に/ふさわしい内部の声が育つまで/(略)/この絶望を掘り下げよ あなたもまた/あの痛ましい海の底に届くまで 掘り下げよ/そうして生命が初めて生まれた海の底に届いたなら/くみ上げよ わたしは私自身に見合う恥なきことばを/あなたは 希望を」
 中村純『女たちへ』(土曜美術社出版販売)の作者の祖父も、十六歳で「玄界の海を渡って/母のいのちを経て わたしのところにやってきた」。二十歳の時初めて戸籍を見た作者は、祖父の欄が空欄であることに驚く。その後長い間アイデンティティをめぐって葛藤を続け、やっと「純」というどんな制度にも定義されない「ただの伸びやかないのち」(「戸籍の空欄」)に辿り着く。本詩集の言葉は、そうした「いのち」から率直に紡がれている。
「祈られているのは 私たち/祈っているのは/海の底に在る 喪われた人たち/核の閃光に 焼かれた人たち/韓(から)の国の 詩人たち//永久歯ひとつの少年の声/蜩の亡骸(なきがら)拾う ちいさな手/東京を離れて三年 京都の夏夜/息子の面差しに 送り火 映えて」(「八月の祈り」)
 吉井淑『水の羽』(編集工房ノア)のモチーフの大半は故郷の自然と家族の記憶。都市の片隅に生きる小さな自然の姿もまた、共苦とも言える眼差しで鮮やかに描き出されている。
「外環状線沿いの/石積みのすき間に咲いて/スモッグの綿と轟音のなかで/明日があることは苦しいだろう/(略)/泥と水に生え出た根/胎児のままそよいでいた頃の/つぶやきの方へ/うつむいている菫/地上にはとどかないことばの方へ//雲の数を数えよう/三つ 四つ 五つ/ひつじ いわし げんしぐも/そのむこうに/そよぐ根//菫にも熱があるのだろう/信号は赤から青へ/青から赤へ」(「菫」)
 鈴木賀恵『ムーブメント―花―』(同)は、八十五歳を区切りにまとめた第五詩集。生の真実を柔らかに伝える技量は、大震災を描く詩でも生かされている。
「海と人間は同胞(はらから)の筈なのに/三階建てのビルの上に遊覧船を置くなんて/あんまりだと思いませんか/その上、意地悪な引き波なんて//叫んでも/頼んでも/波の音で/海には聞こえない」(「海」)