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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

2018年4月16日付京都新聞文化欄「詩歌の本棚/新刊評」

   現代詩から今思想やテーマが消えていると言われる。最近の詩誌や詩集から私もそうした印象を持たざるをえない。ある種の若い書き手達は「ゼロ年代」と呼ばれるが、それは年代というより思想やテーマの稀薄さを指す呼称だろう。その「不毛さ」の中で詩が唯一依拠しうる思想は、「モダニズム」ではないか。実際モダニズムをめぐる詩論も眼に付き始めた。折しもモダニズムの隆盛した一九二〇年代から百年が経とうとしている。歴史を振り返りつつ今の詩を考えるべき時かも知れない。
 金川宏『揺れる水のカノン』(書肆侃侃房)の作者は歌人。四十歳の時、第三歌集のために書きためていた三百首余りの未発表作品を、「半ば投げ捨てるように散文とも自由詩ともつかない破片に完膚なきまで解体し」、「廃墟」と名付けたノートに書きとどめ抽斗の奥に仕舞った。だが数年前、二十数年の時を経て作者はノートを引っ張り出し、そこに息づくかつての自分に再会した。一つ一つ声に出すと、言葉は「揺れる水のうえで微かに響き合った」。そして最初の一行が生まれた―。文語短歌一首に十四行の口語詩が続く「十五行詩」というスタイル
が斬新だ。短歌のイメージが蕾のように凝縮したイメージを、詩は柔らかに花開かせ、豊かに響き合う。そして両者をつなぐのはモダニズムの感覚だ。例えば「とほざかる窓に見えきて町をつつむ二重(ふたえ)の虹のほのかなる足」という短歌で始まる「雨の末裔」において、短歌の一人称のまなざしは詩で多視点に解かれ、世界の細部を自由に移動する。読む者に短歌の声が響き残る中で、詩のイメージは静かに前衛的に展開する。
「紫陽花のなかに淡い紅が差して 白雨が/瞳の奥をゆっくりと通り過ぎてゆく/ぐっしょりと髪を濡らした触角が/ほの暗く燈された水甕のなかを覗いている//しずかな蕾に 一瞬あらわれる夜の雲/井戸の中に忘れられた梯子 星座へ/うつぶせになったあなたの背中に/緑色の小さな翅が生えている」
  以倉紘平『駅に着くとサーラの木があった』(編集工房ノア)は、既刊詩集五冊からの選詩集。表題にも「駅」があるが、作者には乗り物や駅が登場する詩が多いという。それらはなぜか作者の心を惹きつけて止まなかった。ゆえにそうした名詞の入った作品をまとめたいと思った―。乗り物や駅はモダニズムが好むモチーフでもあるが、次の引用詩「サーラの木があつた」は、駅の詩的魅惑の秘密を解き明かしているようだ。
「〈駅〉とは何だろう それはこの世のことではあるまいか/〈着く〉とは何だろう それは遠い所から/この世に生まれたことを意味しているのではあるまいか/サーラには匂いと色があったはずだ/甘い花のかおり/風がにおいを運んできたのだろう/(風はひろびろとした野の方に過ぎさったのか/びっしりとつまった街の家並のほうへ吹きすぎたのか)/そう書くとも汚れてしまう感じなのだ」
 秋野かよ子『夜が響く』の作者は、子供の頃から「時間」に特別な興味を持っていた。経済に支配された現代において、切り刻まれた時間を回復させたいという思いが詩を書かせた。
「春 光に囲まれたその日 粒よりの羽を膨らます/タンポポの綿毛/今日別れわかれて 飛んでいく/死は タンポポのどこにあるのだろう/風が 隠してしまった」「じっと時を待つものがいる/小さい握り拳が集まった 紫陽花の花眼/大雨と風に晒され 怒りもせず/柔らかく 見せかけの花弁の技で戦う」(「季節の断片 誰が仕組んだ」)