#title a:before { content: url("http://www.hatena.ne.jp/users/{shikukan}/profile.gif"); }

河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

2018年10月16日付京都新聞文化面・「詩歌の本棚/新刊評」

   北原千代『須賀敦子さんへ贈る花束』(思潮社)は、イタリア文学者・エッセイスト須賀敦子氏の言葉の「息づかい」に魅了されてきた詩人による、オマージュとしてのエッセイ集。氏の言葉に作者がいかに励まされてきたかを、鼓動が聞こえるような情熱をもって語る。氏は長くイタリアで生活し、彼地の文学を訳し、人を愛おしむ珠玉のエッセイを残した。深い宗教心を持ち、本質的には詩人だった。「幼い頃須賀さんは、詩人になる他はない、と自覚していた。それからずいぶん時が経って、翻訳ではない自分の言葉を見い出したとき、独自の調べを持つ散文が声のように生まれた。」詩人同士の共鳴がこの本を生んだのだろう。今春出た、須賀氏の若き日の詩をまとめた『主よ 一羽の鳩のために』(河出書房新社も併せて読みたい。
 船田崇『あなたが流星になる前に』(書肆侃侃房)の各詩は、掌編小説のようにストーリーがあり読みやすい。だが情景はおのずと深層意識に浸され、思いがけない展開を見せる。あとがきに「もし真空に吹き込むように言葉が現れたら、それが詩であり、僕という人間の形になるのかもしれない。」とあるが、ここにある詩は確かに、作者の中の真空に降りて来た言葉で、世界の不安や悲しみに形を与えた試みなのだ。
「街道では/点々としゃがんだ子どもらが/ひたすら泥を捏ねまわしていた/花が咲いている/黄色く笑う/道端には小さな風呂桶が/気が遠くなるほど並んでいて/老人たちは各々湯に浸かりながら/眠りの中で/密かに風向きを読んでいた//北緯43度の薄い空の下/山脈の優しく/無意味な曲線が消える方角/今も純白なシーツの端に落ちたまま/浅いユメを見る貴方に/静かに震える/ヒタキの尾のような/手紙を書きたい」(「北緯43度からの手紙」)
 服部誕『三日月をけずる』(書肆山田)は、肉親の死、過去の記憶、現在の生活に詩の構成力で向き合い、現実から少しだけずれた世界を巧みに描き出す。現実をもとに言わばパラレルワールドを作り出すのだが、宙に浮いてはいない。作者の円熟した言葉の力は、作品世界を現実以上の現実として仕上げている。
 詩「轢かれた鶏」では、鶏の死骸が何台もの車に轢かれ平たくなっていくのと入れ替わるように、横断歩道に死んだ母が現れる。まるで能の橋掛かりに死者が現れるように。
「鶏が轢かれた刹那の/幻影をかき消すかのように/信号がふいに青に変わる/七七日(しじゅうくにち)を迎えた母が/手押し車を押して/横断歩道を覚束なげに渡りはじめる/ゆっくりと/遙かな彼岸に向かって//信号機は/青になったまま点滅もせずに/母が渡りきるまで/待ちつづけていた」
 また詩「淀川のうえで合図する」は、深夜阪急電鉄梅田駅から宝塚線急行と、京都線神戸線の特急が同時刻に出発することから発想された。急行に乗る作者は、並行して走る特急の窓に、どこかで見かけた男を見つける―ちょっと怖いが深い哀感のある傑作だ。
「ふうっと大きな息を吐いたその男はつと顔をあげ/虚空を見ていた目の焦点をおれに合わせる/おれたちは窓越しに互いを認めてかすかにほほ笑み/どちらからともなく空いている手をあげて/やあ、おつかれさま、と/まわりのだれにも気づかれないように合図を送る/――またいつか、おれたちの心に火が点る夜には、こうして会おうじゃないか//ひろい淀川の鉄橋のうえを三台の電車は/まだしばらくのあいだは/轟音を立てながらならんで走っている」