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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

2019年2月4日付京都新聞文化面「詩歌の本棚/新刊評」

  もうすぐ石牟礼道子さんの一周忌(二月十日)。作家というより詩人と呼ぶべき人だと思う。その言葉は水俣という風土への情愛と葛藤によって、比類なく豊かな生命をもたらされている。詩とは風土と必然的に葛藤するもの。だが詩が葛藤することで、風土は隠し持つ生命を分かち与える。詩人が漁民と苦しみを共にした果てに幻視した不知火海の輝きは、私が知る中で最も深く美しい詩である。

  平塚景堂『白き風土のかたえに』(編集工房ノア)は第四詩集。「白き風土」とは、京都の名高い禅寺院の美術館長である作者が、禅哲学によって透視した京都などの風土の姿でもある。あるいは風土に抗して立ち現れるモダニズムの地平ともいえるだろう。哲学とモダニズムの間で、詩の抒情性を知的にピンポイントで模索している。やや箴言的で難解な箇所もあるが、全体としてモダニズムの空性とでもいうような軽妙さがあり、読者を仏教的な永遠、あるいは時空の氾濫へと誘う。

「昼下がりの 糺(ただす)の森で/見知らぬ男たちが 氾濫している/ガラス窓が たったひとつの瞳孔に/氾濫している//水郷の やわらかな淋しさ/葦原を渡り 季節の果実の変種となり/風の山河に 氾濫する//ああ イセ イズモ スワの/うるわしい真昼野/うるわしい孤絶 白沙 いずみ川/底なしのいずみ 倒れ続ける木立(こだち)/わたしには隠されてある かりそめの めまい/振り向きざまに見た/密林の葬列 そこに そのときに/神々が とめどもなく/見境(みさかい)なく世界を 滅ぼして/氾濫しはじめたのだ」(「氾濫の書」) 

   橋爪さち子『葉を煮る』(土曜美術社出版販売)は、生や死への問いを詩を書くことで煮つめていくかのようだ。観念でなく濃厚な五感や激しい情動の次元で答えを模索する。京都生まれの作者は、いくつかの詩で京都の風土を背景に用い、詩の密度を上げている。古都の陰翳が生死への問いを包み込み際立たせる。京言葉で恋愛の機微を語る物語詩二篇も面白いが、「古武士」のように働き者のミシンへのオマージュ「黒ミシン」もいい。やはり京都の「小間物屋」なのか。「私」は古い黒ミシンの凜とした生き様(?)に感銘し、店を出る。

「小間物屋を出ると/市役所前の丈高く色づいた銀杏の古木が通りを/走りゆくメタリックな車体を次つぎ黄に染める/威風堂々/銀杏と百年の黒ミシンが重なって//たがいに繋がりを持たないものが/ふいに音律のように繋がるとき/おおきく温かな手がくいと肩を抱くかのよう//風紋の果てのドレープ袖/ミシンの下糸釜と女性器の酷似/落日の金波と坊様の背をまたたく望郷/それより/仏さまの螺髪と宙(そら)の運行の悠久な右螺状//いいえ/螺状というなら糸こま/糸こまというなら やっぱりキドの/傷にまみれた武骨な黒ミシン」

 沢田敏子『サ・ブ・ラ、此の岸で』(編集工房ノア)は、戦争のために異郷で生きざるをえない人々に思いを寄せながら、自身の家郷のかけがえのなさを、懐かしい事物をなぞりつつ描き出す。例えば梅の湾曲した古木は、「くらぐらと畑に立つ」祖母のいとおしい姿と根源的に重なるのだ。

「梅の中に母が/いるとは知っていたが/梅の中に祖母も/いたのだった/生涯その足で踏み固めたような庭(おもて)に/梅の実やしその葉を干しながら/おもいをはなつように/こごんだ腰をそらせたものだ/おうめさ――のふたつの乳房は/地を見るばかりだったが/豊饒多産をなかだつ梅は/くらぐらと立つ体軀から/清浄(しようじよう)の花をひらくのだった」(「うめ」