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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

2019年11月4日付京都新聞「詩歌の本棚/新刊評」

 今現代詩の存在意義が見えにくい。書店の詩の棚はもはや短詩型が主流だ。社会の急激な変化に人々が抱く危機感に対し、このジャンルは応答が遅れているからだろう。個人の物語に閉ざされた詩も漫然と増えているようだ。だがそもそもは現代性を根拠とするジャンルだ。戦後詩のように際だつことはないとしても、今の現代詩に固有の形で時代に共振する方途はかならずあると思う。
 鎌田東二『狂天慟地』(土曜美術社出版販売)は昨年から刊行の続く「神話三部作」の掉尾を飾る。「詩を書き始めて五十年、半世紀が経って、自分なりのけじめというか区切りをつけたかった」。そのような本詩集には、宗教哲学者でもある作者の詩の原点をテーマとする作品もあり興味深い。神秘体験に近い記憶を足場として、人災でもある現在の天変地異がもたらす世界の混沌に向き合い、作者は鮮やかな「最終の言葉」を放つ。
 とりわけ台風19号が襲来した直後に読んだ連作「みなさん天気は死にました」は、甚大な被害の光景とおのずと重なり、胸に突き刺さって来た。表題は、五十年前作者が投稿欄で出会った高校生の詩の題名だという。「田村君」のその言葉が作者の中で「鳴り響きつづけ」、「初動を衝き出し」、本詩集に「結実した」のだ。「天気の死の行方を追いつづけた五十年」の間、「田村君」の一行は、作者の詩作を支え導いて来たことになる。
「みなさん天気は死にました/こころの準備はいいですか?/からだの準備もできてます?/たましいの準備はいかがです?//みなさん天気は死にました/死んだとはいえ天気はあります/狂天慟地の天気ではありますが/前人未到把握不能のお天気ですが」
「みなさん天気は死にました/秦の始皇帝ばかりではありません/あらゆる時代のあらゆる為政者は/天気のこころを気にはしながら天気を憎みました/思い通りにならないもの すごろくの賽 賀茂川の水 僧兵/いや一番思い通りにならないものは 天気のこころでございます」
 君野隆久『声の海図』(思潮社)は、五十代での第三詩集。「十代で詩に惹かれ」、三十代四十代に各一冊出した。「あとがき」で作者は、自身の「蝸牛の歩み」を「自分と詩とのかかわりの固有な時間配分だった」と捉える。時代の急激な変化に惑わされず、詩と関わる自分の時間を見つめて書くことは大切だ。言葉が時代の散文性に奪われず、結晶化するまで待つための「遅れ」ならば、詩にとって必要不可欠なのだ。詩「塩田」は、繊細な筆致で作者の詩作自体をモチーフとしているようにも読める。
「速度を上げる車両の傾きを感じながら/麗かな湾を眺めていると/前方に/きらきらと白い光を発する場所が見える/(さながら指輪の宝石の位置)/湾曲の向こうから痛みの光の錐を/眼に揉みこんでくる/あれが塩田のある町か/そこは昔ながらの方法で砂田に何度も海水を撒き/天日で塩の結晶を析出させる/古代からの製塩法を守っているのだという/いかにも遠くからでもわかる結晶質の反照に領された町」
 渡部兼直『あなたのいのちの日時計の上』 (編集工房ノア)は翻訳詩と自作を収める。自作詩に「天気が死んだ」世界の一隅の姿が、垣間見えている。
「豪雨にみまはれ/橋桁をいだき/泣いてゐる/幽霊は/ひそむ場所どこも無くなり/もつとも困つてゐる/暗い夜空の/寒い烈風に/吹きさらされ/すすり泣いてゐる」(「冬来たる)