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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

2019年12月16日付京都新聞朝刊「詩歌の本棚・新刊評」

 先月訪れたパリでの散策中、ある街角を曲がると、ふいに詩が現れて驚いた。壁二面にわたりランボー 「酩酊船」が刻まれていたのだ。壁の近くにかつてあったカフェで、17歳の詩人はパリ・コミューンへの共感をもとに書いたこの名作を朗読したという。荒れ狂う波に酔い痴れる船の幻想の詩。言葉そのものが石の街にざわめく海のように思えて、暫く足を止めた。
 武部治代『人恋ひ』(編集工房ノア)の作者は、「湖水の地」に生きながら、
「荒寥の海」に憑かれる。海の予感は、琵琶湖という深く静かな存在から、日々突きつけられる詩の予感でもある。本詩集で「私」という主体はひたすら澄明で、余計な私的物語はそぎ落とされている。それゆえ読者は詩の言葉と共に、鋭敏な「存在論」のただ中に、おのずと身を置くことが出来る。すぐれた思索とゆたかな感受性の詩集である。
「近江の広域を埋めるかのような/湖水の地に越してきても/海を恋うた/矛盾のなかで懐かしんだ//小止みなく降る雪は/黝い湖面に抵抗もなく消え/跡もみせず/降る雪に湖は黙したまま/限り有る刻を受け容れていく/(それは永劫でもあり)/染み入る水にむかい/北湖の無言のたたずまいに圧されていた/ここは北端/青鈍(あおにび)の静寂に閉じ込められて 柔らかく/汀に立つ//鼓動の奥で/波立つ海をおいて/湖へ移行していくものがある」(「湖水地方・冬」)
 湖と海から汲まれた存在論的な言葉は、戦争やアウシュヴィッツとも対峙する。詩集の終盤で言葉は登山という身体行為と一体化し、祈りの闇の中で「降る星の/沈黙に包まれる」。
 今野和代『悪い兄さん』(思潮社)は、もはや革命という社会システムの根源的な転倒は不可能であるという苦い認識の下で、たった独りで抵抗する「悪い兄さん」たちの幻影を追う。作者自身をそこに重ね合わつつ、斃れた者たち(女性も子供も含む)をうたうように哀悼する。ビリー・ホリディの歌「奇妙な果実」と絡め、昨夏刑が執行されたオウム真理教の死刑囚たちの最期の姿も浮かび上がらせる(「ビターフルーツ」)。そんな本詩集にはランボーもいる。二十歳で詩を捨て、やがて砂漠の武器商人となった反抗の詩人も、たしかに素敵な「悪い兄さん」である。
「もぎとられて/この地上に落ちた/神さまの林檎みたいに/甘い芳醇な魂を滴らせながら/蜃気楼めいたノスタルジーと/ママレードのほろ苦い悔恨を/明けはじめる平野の空の青にすばやく溶かせて/きらきら光る真白な夏雲の尻尾に飛び乗ると/駱駝と隊商とソマリア人とランボーが歩いた/砂漠アビシニアのアデンを越えハラルを過ぎ/きみはもう呼んでもふり向かない背中になった」(「影と旋風」)
 徳永遊『生きている間(あいだ)』(土曜美術社出版販売)は、生きている間「次々と生まれて来る泡のような不安」に、詩によって形を与えていく。不安の「泡」は捉えられず消えもしない。だがそれを感じ考え夢想する「自由」をこそ作者は描き出そうとする。暗い海中の魚が、自分の尾鰭をつかのま垣間見るように。
「そうしてわたしたちは/孤独と不安の寄する波の間を/かいくぐりかいくぐり/魚のように張りついた目を/見開いたまま眠る/(略)/時々水の中で/鱗が銀のように光るのは/幻だと魚は諦めた//房総半島の昼の光が/魚の目を射た/一瞬/悪魔のようにピンピンと鮮烈に/跳ね銀鱗を光らせた//昼の光がより烈しく鱗を光らせる/はじめて魚は自分の銀の尾鰭を見た」(「波の間」)