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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

2020年4月6日付京都新聞文化面「詩歌の本棚・新刊評」

 羇旅歌というジャンルがある。旅の体験や感慨をうたう詩歌で、『万葉集』が始まりとされる。十年以上前、私も紀州・熊野を幾度となく旅し、京都に戻るたびに詩を書くという体験を続けた。彼地の様々な美しさへの感動を、それが醒めやらぬうちに机上で言葉に解き放つ喜びは、何にも代え難かったと今でも思う。
 松沢桃『ウシュアイア』(砂子屋書房)は、「最近二年ほどの旅に材を取った第七詩集」。急逝した夫の三回忌を終え、ようやく悲しみに向き合えるようになった頃、作者は旅支度を始める。地球儀を見ながら夫と話し合い、二人で訪ねるはずだった地も含め十回渡航。帰国のたび「詩作に没頭」したという。「生きるため、死んでいたワタクシをとりもどすため」に。「空白を埋めるかのように」「朝も昼も夜もなく」「鉛筆が時を刻んだ」。
 メモのような名詞止めの多用や、無駄な形容詞のない文体には、訪れた土地の乾いた詩情と、出会った風景に礼節を保とうとする作者の姿勢を感じる。ふいに行間から射す異郷の光は、蘇生の光である。

「ぴりぴり きりきり ひりひり/索めるものが ある/細胞のすべてが アンテナ//想いが凝って 人形(ひとがた)となり/最果ての地に たどりついた//ティエラ・デラ・フエゴ国立公園/みつけた 痕跡/最前線の木立のみが 一様に傾ぐ/はげしく斜めに 幹も枝も/アンデス 太平洋 南極 三方から吹きつのる/風の坩堝の 現場//出遇いは 突如訪れる/予想だにしていなかった場所/コンドル展望台/フィッツロイ山の朝日観賞をするため/夜中の登山/展望台は 風速五〇メートルの岩場/岩にしがみつき 夜明けを待つ/ひたすら
飛ばされないよう 身をかがめ寒気に堪える/ついに/淡い朱に輝くフィッツロイが あらわれた」(「ウシュアイア」冒頭部分)
 守口三郎『劇詩 受難の天使 世阿弥』(コールサック社)は、英訳詩も収めた英日詩集。昨年六月に亡くなった作者は英文学者でもあった。劇詩とは「上演を直接の目的としない劇的様式による詩作品」のこと。本詩集の二篇は共に「夢幻能」の「様式美」をそなえる劇詩である。「受難の天使」は「人類に火と技術を伝えたために責め苦を受ける半神プロメテウスの神話」、「世阿弥」は晩年の世阿弥が題材である。とりわけ佐渡への流刑から発想された後者は、この室町時代の能役者の深い思想を知る上でも興味深い。
佐渡へ流された後の世阿弥の消息は、伝存する小謡曲舞集の『金島書』と金春大夫(禅竹)宛書状一通によって窺い知るだけで、その終焉の地も没年も不明で世阿弥晩年の実像は謎に包まれている。私は、神仏に帰依し、悟りを求め続けて救われる人間を想像して描いた」。両作ともにワキが旅人であるのは面白い。旅人には怨霊も心を開くのだろう。(紙幅の都合で引用出来ないのが残念だ。)
 安森ソノ子『紫式部の肩に触れ』(同)も英日詩集。京都で生まれ、世界を旅しつつ今も京都で暮らす作者の、故郷と異郷のそれぞれへのオマージュ詩が収められる。
「川幅一杯の白い落下は/水鳥を迎える大スクリーン/泡散る浅瀬に/般若の面も小面も沈ませて/晩秋 一人岸辺の/難路の地図帳/流れの奏でる底力に/亡くした家族の/京都を研ぐ//陽光のもと/渡る水の面の表情/生地の川 青の霊/死者ののぞみは/空の書状の帯を/流し続けて/この環境よ/未来への夢抱き/ふるさとの京の街/永遠に」(「鴨川で」)