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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

2020年8月18日京都新聞朝刊文化面「詩歌の本棚・新刊評」

 詩を書く時、多くの書き手は白紙状態で詩を待つだろう。特に聴覚を鋭敏にして。私が考える詩作の実相は以下のようだ。まず日常で最も酷使される視覚を閉ざし、書き手は全身で耳を澄ます。詩の根源である未知の世界から音や声を感知するまで。耳を澄ます姿勢が定まれば、詩のヴィジョンは自ずと展開する―。
 神田さよ『海のほつれ』(思潮社)は、以上のような意味での聴覚の詩集だ。作
者は原体験である阪神・淡路大震災の記憶から東日本大震災、空襲、沖縄戦の死
者たちへ聴覚を伸ばし、言葉を繊細に共鳴させ、今も死ねない死者たちを幻視す
る。まるで作者自身も死者と化すかのように。詩は海底の藻のように揺らめきつ
つ展開し、読む者を生死の境へ導いていく。
「いつからかわたしは壺になって/海の底に没(しず)んでしまった/砂に埋まり
もう浮き上がれないだろう/ときおり潮のながれが/わたしを揺さぶる/漏れ出
るおと/内耳の水圧/くぐもる響き/声なのかもしれない/吐き出される 人の
/かつて聞いたことのある/震える声//欠けた傷口に/海草が絡み/小魚が入
って来たり出たりしている/穴口から波間に消える/魂の荒い息/記憶の綱はほ
どけ/喪の明けない海//死者たちの声で/ざらざらの表面は膨らんできた/深
淵の潮流にのせて/わたしはひび割れた音を/鳴らし続けている」(「奏でる壺」
全文)
 伊藤芳博『いのち/こばと』(ふたば工房)は、「高校籍の国語教員でありながら、教員生活の四分の一を特別支援学校で過ごし」た体験から生まれた詩集。作者は子供たちに言葉を教えながら、子供たちから「言葉にならないことばをいのちとして感じとることができた」という。言葉の習得が遅い子供たちの発語には、人が他者に向かって感情を伝える原初の喜びが満ちている。作者は全身で耳を澄ませ待ち続けた。言葉が小鳩のように飛び立つまで。言葉という命の、神聖な誕生に立ち会うまで。
「『おはようございます』//『おは よう こざい ます』/『!』//きょ
うもたちどまり/いつものごとく/あとずさりする/か/かたまってしまう/か
/にげていく/か/とおもっていると//はにかむように/ニッとした/『おは
 よう ござい ます』//かぞえてみると/二百五日!/『おは よう ござ
い ます』/まで/二百五日/ヨシくんは/あるいてきた/ぼくにむかって/い
や/ことばにむかって//ふいにあらわれるのだ/このように/まっていれば/
そう/まっていなければ/とおくから//そんな日は/とおくからやってくるも
のをうけとる/このなりわいを/ほこらしくおもい/ここからあるいていくヨシ
くんを/まばゆくかんじる//そして/それをことばにしているということに/
てをあわせる」(「いのち/ことば」全文)
 畑章夫『猫的平和』(草原詩社)は、生活のざわめきや匂いに共振しつつ、詩の
「結構」を巧みにつかみだす。大阪という土地に今も生々しく埋もれる戦争や差別や人情の歴史。作者は猫のようにその気配に耳を澄ます。すると不思議な奥行きが、短い詩に陰影深くもたらされる。
「吸い殻や竹串が/足元に散らばるガード下の酒場/頭の上を/満員電車が通過
する//少し離れたところの戦災慰霊碑/隅で半開きのビニール傘が/寄りかか
る//急な雨に広げられた/一本五百円は/雨がやめば置き去りで/骨の何本か
は折れ曲がり/いつのまにか 消える//ビールの泡が揺れる/暗いところで/
骨が光る」(「置き去り」全文)