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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

11月16日付京都新聞朝刊文化面「詩歌の本棚・新刊評」

 詩は遥かな他者への投壜通信だと言った詩人がいる。至言だが、一方身近な他者も詩の重要なモチーフである。だがそれを詩に描き入れるのは決して易しくはない。小説やエッセイとの違いが問われるからだ。詩でしか見いだせない他者との関係とは何か。
 東川絹子『ぼくの楽園』(編集工房ノア)は、各篇一話完結のいわばコント詩集。起承転結をつけつつ、詩の飛躍や余白の力を巧みに用いることで、他者あるいは他者としての自己をふうわり降臨させる。消える刹那、他者たちは詩の光をいとおしく放つ。
「玄関のドアを開けると/四歳の息子と二歳の娘が待っている/ひとかかえにし
て一気呵成に抱く//子どもたちは成長して/ドアを開けっぱなしにして出て行
った/「さよなら 元気でね」//老いた母が玄関マットに座って待っている/
着物の裾をちぎりながら/肩を抱くたび薄く軽くなっていった//五階から 猫
のミィの鳴き声がする/いそいでエレベーターに乗り 扉が開くと/爪を立てて
跳びかかって来た//「ただいま」/居ないみんなの名を呼びながら/わたしは
 わたしの肋骨を抱いている」(「ただいま」全文)
 細見和之『ほとぼりが冷めるまで』(澪標)は、家族や友人といった他者たちの体温が、言葉の所作からじんわり伝える。独白が吹きさらされず、作者自身の体温が思考と感情を包む。それゆえ社会問題への鋭い眼差しも肉体を持ち、読むこちらの肉体へしっかりと届く。
「眼を閉じていても分かる/そこを通過するとき/ことさら電車の速度がゆるや
かになるから/乗り合わせているのはみんな/生きのびてふたたび通い慣れた者
たちだ//私を運び、私を停止させ、私を殺す/大きなもの、あらがいがたいも
の//何から守っているのか/白い網をかぶせたフェンスに囲われた細長い耕作
地があって/それが滑走路のようにすーっと狭まっていって/見慣れたマンショ
ンの壁がいつも唐突に姿を見せる//(あの秋もきっと収穫はあったのだろう?)
(「JR東西線尼崎駅の手前」全文)
 沢田敏子『一通の配達不能郵便(デツド・レター)がわたしを呼んだ』(編集工房ノア)は、生者と死者の関係を模索する。「想像だにしなかった世界規模の災厄の襲来と伝播に慄きながら、そのさなかに本書を編むための舟を漕ぎ出した。いつのときにも、生ある者たちと、もういなくなった人たちとの間に交わされる〈ことば〉を、いっそう傾聴するようにと念じたこの貧しい書を私の著書の一冊に加えたい。」と「あとがき」に記す作者の関係性への希求は、必然的に「平和の少女像」へも向かった。
「裸足で辛苦の道のりを歩いてきた/少女の踵(かかと)の泥土はすでに/ひとび
とに拭き清められていたが/擦れた皮膚が癒されるまでの/道のりはさらになが
く/ふたつの踵は祖国の地面に/まだ/着地できない/その隣に/象徴の椅子が
一脚/腰を深く折ったままにわたしを誘う。」(「椅子ーーその隣にある」)
 山中従子『やわらかい帽子』(思潮社)は、日常がふいに帽子が凹むように変貌する不安を、幻想譚によって鎮めるかのようだ。そこでは作者自らもまた、柔らかく何かの事物に転身していく。
「ずいぶん/来すぎてしまった/頭上には/開ききった青空が/いつまでも枯れ
ずに咲いている/わたしは/溢れるひかりを浴びて/ひび割れ/たえまなく/透
明な砂をこぼしている/地平線は/砂に変わっていくわたしを/真っすぐ立たせ
てくれる」(「砂時計」全文)