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詩空間

河津聖恵のブログ。この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

辺見庸「神話的破壊とことば」(「文藝春秋」5月号)

「文藝春秋」5月号の辺見庸「神話的破壊とことば」に打たれました。同誌は震災特集ですが、辺見さんの文章は他の文章とは、やはり格が、質と次元が違います。他の筆者が、今回の悲劇をこれまでの自分の言葉や論理にやすやすと回収し、時に超法規だの大和魂だの挙国一致だのと無思慮なタームを恥ずかしげもなく晒し、思考や感性の硬直化、書き手としての鍛練のなさを露呈しているのに対し、この文章は、言語を絶する光景を目の当たりにした人間の無意識、言語化出来ないままの意識にまで、確実に届きえています。このような魂の位置に私はいたんだ、あるいは今いるんだな、という確かな覚醒感があります。言い換えればここにある廃墟の描写や廃墟をめぐる叙述は、あの光景や事実をそのまま述べたものではなく、みずからの思考と感性に沈潜し、普遍的なVisionを掴んだ結果、本物の詩人におのずと立ち現れた、陰影すぐれた言葉のつらなりなのです。他の筆者の文章の有様からも分かるように、メディアの情報やこれまでの自分の整合性にしがみついて語り続けても、もはや何にもならない。私達はあの一瞬以来、イキモノとして、モノ化することを怯え畏れているのだし、私達が今もそこに佇む魂の根には、「未編集」の廃墟が拡がり続けているのですから。そこに言葉を届かせなくてはならない。これまでのどんな言葉からも逃れるそれらの瓦礫からこそ、言葉を拾い上げること、システムの記号としてではなく、あくまでも今私達の底に感じ取らざるをえない瓦礫に身を屈め、言葉への希望と言葉への謙虚な意志をもって拾い上げることが、言葉を持つ者すべてにとって必要なのです。このところの一連の詩人辺見庸の仕事は、そのような新たな内部への出発点を与えてくれ続けています。「いまはバラスト(底荷)もジャイロコンパスもうしなったわたしは、すてばちにもなれないほどに空洞な舟である」 …「空虚」ではなく「空洞」としてこの「神話」に共振するための言葉がここにあります。