「冬が近くなると ぼくはそのなつかしい国のことを考えて 深い感動に捉えられている そこには運河と倉庫と税関と桟橋がある そこでは 人は重つ苦しい空の下を どれも背をまげて歩いている ぼくは何処を歩いていようが どの人をも知っている 赤い断層を処々に見せている階段のように山にせり上っている街を ぼくはどんなに愛しているか分からない」
小樽の旭展望台の碑に刻まれた
1930年11月11日付の
村山知義夫人宛の多喜二の手紙の一節です。
獄中で書かれたにもかかわらず、
あるいは獄中だったからこそ、
故郷は痛切な愛の具現としてその脳裏に立ち現れました。
現実よりも現実的に
歩く一人一人の背中さえもまざまざと幻視するまでに。
絶望の闇の中で故郷は輝き出したのです。
作家は殆どの作品は小樽を描いています。
日本を代表するプロレタリア作家であると同時に
死ぬまで小樽の作家だったと云っていいでしょう。
残念ながら今回は大雪で展望台も多喜二のお墓にも行くことは出来ませんでした。
いい季節にまた訪問したいと思います。
今回、小樽の詩人たちに案内されたゆかりの地をいくつか紹介します。
まず訪れたのは海猫屋です。
1929年発表の『不在地主』はその2年前に起こった磯野小作争議を扱ったものですが、
その「不在地主」=磯野進が経営していた磯野商店の倉庫を改造したレストランです。
外部も内部も、明治期から昭和にかけての時代を彷彿させる
しっとりとしたレトロなオーラを感じました。
とても美味しいアサリのパスタもいただきました。
次に訪れたのは市立小樽文学館です。
ここには「多喜二コーナー」があります。肉筆の資料やゆかりの品を見ることができます。(写真は撮影可でした。)
ここで一番見るべきなのは、多喜二のデスマスクでしょう。
特高の脅しにも負けず、地下から小説を発表した多喜二は、1933年スパイの手引きによって逮捕され、三時間以上もの凄惨な拷問の果てに絶命します。
千田是也、原泉などの友人たちは大急ぎでデスマスクを作りました。
特高たちがいつ踏み込んでくるか分からない中で急いで取った石膏の型には
多喜二のまつげがついていたといいます。
多喜二は小樽商業学校の時に水彩画を描いていました。途中で学費を援助していた伯父の反対で断念します。しかしかなりの腕前だったようですし、後の小説において絵のセンスは、巧みな風景描写などに活かされています。
『蟹工船』の冒頭の原稿です(コピーだったようです)。端正かつ勢いのある字です。多喜二の字はきっちりしていて、銀行員としても有能だったのもうなずけます。コーナーには私の他、二人の若い女性がいて、熱心に資料を見ながら、
「こんなすばらしい作家が、本当にもったいない、なぜ、なぜ・・」と涙声で話していました。
私も同感です。
遺した言葉だけでなく二九年の真率な生き方そのものが、
強烈なオーラとなって今も、今こそ私達の胸をつらぬくのです。
文学館を出たあとは車で多喜二が住んだ場所(何度か近辺を転居していますが)を見に行きました。
雪はどんどん激しくなり、
また家がそのそばにあったとされる小樽築港駅付近の積雪も大変なもので、歩いて探すことは出来ませんでした。
走る車の中から「国道あたり」のこのあたりかな、とかなり主観的に断定した地点です。
高商近くにあるカトリック富岡教会です。
多喜二の母セキが通った教会かと思ったのですが、後できいたらそれはより町中にある小樽シオン教会だったとのことです。そちらは雪深くてやはり行けませんでした。
しかしこのカトリック教会は内部もアンティークかつ清貧な美しさで、何か忘れていた遠い記憶が蘇るような気がしました。
教会の入口の脇では、雪の中でマリア様が優しく祈ってくれていました。
小樽高商へ上る坂(多喜二の通学路、上がるのが大変で「地獄坂」と呼ばれた)のふもとにある文学資料室「地獄坂」。多喜二を深く愛する方が個人的にひらいている資料室がここにありました。
作家の部屋が見事に再現されていて、感動しました。
小樽では多喜二を愛する人々が一人一人の思いと力で、
その文学を未来に伝えようとがんばっているのです。
この日の夜は、「小樽詩話会」の方々との交流をかねた朗読会。
小樽詩話会は、昨年五〇周年を迎え、今年の二月に出た最新号で565号を数えるというから、すごい。
新鮮な鱈のお鍋もいただき、初めてお会いした詩人たちの声の中から、それぞれの詩を純粋に愛する心に触れ続け、1月26日の夜は更けました。
?