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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

『環――歴史・環境・文明』(藤原書店)57号に「詩獣たち」第14回、「死を超えて汽笛は響く―小林多喜二」 を書いています。

『環――歴史・環境・文明』(藤原書店)57号に

「詩獣たち」第14回、「死を超えて汽笛は響く―小林多喜二」 を書いています。

なぜ今回多喜二を選んだか。

この連載では、詩人たちが、時代と宿命にいかに詩を書くことで抗ったかを

それぞれの生の内側から描き出すことを試みています。

連載を続ける過程でふと見えてきたのは、

詩人たちの間に存在する、密やかな魂のつながり。

次回に誰を取り上げるかはその時々の思いに任せて選んでいるのですが、

その選択には、連載の内側から見えてきた「魂のつながり」を

もっと詳しく知りたいという気持が主に働いています。

第12回でとりあげた石原吉郎

シベリヤから帰還した直後の舞鶴で、

立原道造の詩集を手に取りました。

立原の詩を読んだことは、シベリヤで長い間失語状態に陥っていた石原にとって

「日本語との再会」だったそうです。

そのことが気になっていて、

第13回では立原をとりあげました。

そして今度は立原の日記や手紙を追っていくうちにある箇所に立ち止まりました。

結核による死が迫る予感を記したあとで、

小林多喜二の死が美しく自分を誘惑する、と立原は述べています。

そこには自分は行けない、そのような死は自分には幻想に過ぎない、と。

この一カ所が謎のように私の中に残りました。

結核で衰え、生来美的観念的で、

日本浪漫派に接近もした道造が

多喜二の死に美しさを感じ、

多喜二のような死に方に憧れていたということ。

それは何を意味するのだろう、と。

多喜二は1903年生まれ。

立原は1914年生まれ。

この10年の年齢差が表している時代の決定的な裂け目はなんだろうと。

もちろん

それぞれの資質と短い時間を生きた空間の差異も。

このブログでも書きましたが、1月には小樽に行き、

多喜二の文学を「揺籃」した様々な風景を見、また私なりに肌身で感じてきました。

そこでつかんだイメージは「汽笛」でした。

大雪が吹き付ける中、札幌から小樽に向かう列車は

何者かに追われるように、あるいは遭遇するように

何度も何度も汽笛を鳴らしました。

あんなに汽笛を聴いたのは初めてでした。

そのときふと

およそ百年前、小樽の町外れの線路際の家で

幼い多喜二はこのような汽笛を聴きながら眠り、あるいは夢想したのではないか、

そして作家になってからは勤めが引けた後、真夜中に

赤い鰯のような眼をして『蟹工船』を書いていたのではないか、と、

想像がおのずとふくらんでいきました。

実際、十六才の時の詩「揺籃」は汽笛をうたったものです。

 「ぼう ……/燈りもさびしい留守/静けく……低ーーく/港の夜更/独り室ぬちに聞くーー汽笛/あゝ私の懐かしい揺籃よ/そして淋しい子守歌よ/私はそれの枕に/その音律に/遠い昔の私を想う」。

多喜二という「孤独なロマンティスト」でありながら

「胸からの社会主義者」となった詩人が

なぜあの時代、小樽で生まれたのか。

そしてなぜ国家に虐殺されるという道を選び取ったのか。

そこには多喜二の痛切な汽笛のような思いがありました。

そしてそれは今もその言葉からつねにきこえています。

今回の論では、その汽笛を私なりに耳を澄ませ、聞き届けたいと思いました。

多くの人に読んでいただき、

多喜二という「詩獣」の駆け抜けた29年間の生の輝きを

感じてほしいと願っています。

Kan57