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詩空間

河津聖恵のブログ。この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

詩歌の本棚・新刊評(10月6日付京都新聞掲載)

 ある言葉の連なりを、私達はなぜ詩と呼ぶのか。詩は定型や規則を持たない。では何を根拠に言葉は詩となるのか。比喩によってか。テーマやリズムか。そうした詩の原理が問われなくなって久しいが、個人的には、詩には、部分と全体の新鮮な関係が必要だと思っている。思い出すのは、加藤周一氏が『日本文学史序説』で日本文化の特徴として指摘した、「全体から部分へではなく、部分から全体へ」という方向性だ。それは現代詩が先鋭化してきたものであり、ポストモダンの時代は細部の遊戯性もうたわれた。今両者の詩的関係はどうなっているのか。

 杉本秀太郎『駝鳥の卵』(編集工房ノア)は、部分を際立たせ、また全体を部分に陥入させることで、巧みに詩を不思議な小宇宙として現実から遊離させる。全体としてシュールレアリズムの詩風だが、書く行為自体をテーマとしたり、書かれている当の詩が作中に出現したりと、いわゆる自己言及的な手法も 見られる。その一方で「小宇宙」は、現実からの危機をつねに感受する。戦争や原発事故による破滅の予感が、「駝鳥の卵」を下から突き刺そうとしている。だが作者は、美しく煌めく部分によって、暗い全体を包み返そうする。次の詩では、無数の部分が流動しあい浸透しあって、全体は部分の関係性によってゆたかにいきづかせられていく。

「運河の水は/何気なく/気づかれにくく動いている/わたしのポケットから落ちた紙きれを/むこうの橋のさかしまの影がアミーバのように/ゆっくり包摂し締めつける/その無言の時をみたして/橋下にすけた弓形の空の映像のなかに/わたしのポケットの紙きれが/沈まず もとのまま押し出される/――次第に小さく/ちらちらとした/かすかな暖(ぬく)みのある光をともしながら/わたしはその青ずんだ/心もとない明るさを目に収め/地図の上にさぐりあてたユダヤ街にむかって/鳥獣剥製 製本機械類 砂糖菓子/まことの花も仇花もならべている運河の家々をとおりすぎる/帆柱のない船のようにゆっくりと/わたしはとおりすぎる」(「アムステルダムの正午」)

 中筋智絵『犀』(私家版)は、研ぎ澄まされた詩的感覚で、部分を全体から静かに解放していく。「犀」とは「ひとり歩み続ける」存在だが、それは部分の自立を追求する作者自身の姿ではないか。次の作で千手観音の手は、地獄や民衆の苦悩の換喩となっているが、換喩もまた部分で全体を捉える修辞法なのだ。

「宝物館 沈殿する緑青の冷気に立ちすくみ/私は黙って仏像を見つめた/片隅の暗がりに座った警備員/茫洋とした暗い目は、長い午後 何を思って見つめるのだろう/千手観音の 奇怪に飛び出た無数の腕たちを/その赤銅色にうごめく針山地獄は 差し伸べられた救いの手には見えない/何かを掴んでいるものもある 掴もうとして泳いでいる手もある/幾多の戦乱を経た民衆たちの 苦しげな息遣いを一身に背負って/仏像の豊かな胸板は少し汗ばんでいる」(「東寺 千手観音」)

 名古きよえ『名古きよえ詩集』(土曜美術社出版販売)にある作品「雫」は、一滴の雫が日常全体を映し出しつつ、優しいリズムとして照らし返すさまをうたっている。 

「玉の輪から広がり 波動して 深部にまで届く/その光は/眠っている人を呼びさます/誰かの手のように 一つのあたたかいリズムを備えている/つつつ……っと導かれて昇っていく意識に/早や 明るい空間が生れ/わたしの肉体(からだ)は軽く抱かれている」