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詩空間

河津聖恵のブログ。この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

「フクシマ以後詩を書くことは野蛮か」(一)

アウシュヴィッツ以後詩を書くことは野蛮だ」。

ドイツの哲学者アドルノが1949年に書いたこのテーゼを
最近、ある詩人がエッセイで引用していました。

詩人はこう言っています。

大震災の未曾有の悲劇の後、そして今もなお続く原発事故の被害が深刻化する今
このテーゼをふたたび当てはめることができるのではないか。。
つまり
「フクシマ以後詩を書く詩を書くことは野蛮だ」。
そういえるのではないか。
なぜなら無理に書いてしまえば、
それこそ想像力を欠いた野蛮な言葉になってしまいそうだからだ。
こんな惨状に対し比喩なんて無理だ。
だから詩は無力であるといわざるをえない。
この悲劇を前に、比喩は死んだのだ。
たとえそれが詩の死を意味しないとしても。
比喩の死という事態こそが、新たな詩の境地をたしかにひらくのだ──。

高名な詩人による文章だったので、唖然としました。

東日本大震災から五ヶ月という時期にもなって何を言っているのでしょうか?
内容以前に
その「平静」さ、あるいは「超然」とした言い放ちに、暗澹たる気持になりました。

震災当初は、たしかにアパシー(無気力、思考停止)に陥ってしまい
誰しも比喩が砕け散るのは仕方がなかったでしょう。

しかし、結局は比喩こそは詩の存在理由となるのではないでしょうか。
現実との関わりから、比喩を見出し、あるいはたたかいとることこそが
書き手と読み手双方に、詩の喜びやカタルシスを生むのではないでしょうか。

けれどよく考えれば「比喩の死」というのは
じつは震災によって初めてもたらされたものでは決してありません。
現代詩はずっと、思考の長い射程を必要とする比喩というものを
欲望することも尊重することもなく、
それこそ無力のままみずから捨て去りつづけてきました。
正確には、現実と関わって思考や言葉の力を鍛えることを放棄したために、
詩の方が比喩に見捨てられてきたのでした。
いつしか「ゼロ年代の詩」とさえ自称していたではないですか。

この震災の前で詩は無力だ、比喩は死んだとこともなげにいってしまうことは
まさに不誠実そのものです。
ツェランなどの苦悩をもふまえたアドルノのテーゼで自己正当化するのは
あまりにも自己本位としか思えません。

むしろ詩は、この震災という深い断層の切れ目からこそ
痛々しい、美しい比喩の結晶を生みだすべきなのです。