宇佐美孝二さんの新詩集『ひかる雨が降りそそぐ庭にいて』(港の人)が出ました。
帯文を書かせていただきました。
私は以前から宇佐美さんの詩が好きでしたが、
しかしなぜ好きなのかはなかなかうまく言えないでいました。
けれど、つまりは、なかなかうまく言えないからいいんだなあ、と
今回帯文を書きながらあらためて分かったのでした。
宇佐美さんの詩には
「ことばではうまく言えない」情景や出来事(多くは人目につかない透明なもの)を前にしたときのためらいが
初々しく、しかし詩的な的確さをもってとらえられています。
装丁も大変素敵な詩集です。みなさまにもぜひ手にとっていただきたいと思います。
以下、詩の一部を引用します。先日ここで引用した吉野弘の「生命は」に出てきた「花と虻」を、どこか想わせられた詩です。
花影のそば、空中に、新たな虫の影が飛来して……
(ついに渡されなかった恋文。あのとき受理されなかったことばは、
机の奥にしまいこまれたままだ。それにしてもどんなことばで、お
まえは少女に伝えたのか。かすかに記憶している、「アナタヲ毎朝
見テイマス……」
虫たちはつぎつぎ、花におし寄せているのだ。壁の影がそれを伝
えている。
(でもことばは目の前を流れていったよ。おれはなにもできず見送っ
た。あのときおれは眠りに、自分の時間をただ流していた。グラス
の水はあいかわらずいっぱいだった。溢れようとして震える水はど
うすればよかったのか。叫びたかった。
虫たちの影だけが蠢(うごめ)いている。
ひとびとはなぜあんなによどみなく喋ることができるのだろう。
夕暮、鳥たちが樹の中でさかんにざわめいて、それからふいに黙る
ことがある。ことばは、沈黙の向こうがわからしずかにおし寄せて
くるものではないか。
虫の羽音。それらを聴いている周りのすべてのものたち……
(「虫の羽音。それらを聴いている周りの……」部分)
*ちなみに以下は私の帯文です。
己のなにが漲(みなぎ)り溢れさせるのか──。
ゆめのなかのゆめで魂(ひと)は
ふるえ問いかけつづける。
詩人はその共振れの中に
永遠に「居る」。
この詩集には、花が虫であった
私たちの未生の時(あお)が、
さざなみのようにみちている。