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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

7月8日京都新聞朝刊「私論公論」」 「福島原発事故──原子力制御は思い上がり」

 一週間前に掲載された論説ですが、とても説得力のある筆致の文章でしたので、転載致します。「刹那的利己的なエネルギー多消費に東縛される文明観からの自己解放が課題となっている」。たしかに今、政治の動きを見ていると、原発からの脱却が、この国ならではの保守性のために、いかに難しいかを思い知らされます。脱原発は「自己解放」だからです。他人を解放するより、自分を解放することはたしかに困難です。しかしだからこそ私たち自身が今やらなくては、子々孫々に絶望を積み重ねることになるのです。

7月8日京都新聞朝刊「私論公論」」
福島原発事故──原子力制御は思い上がり
                     使い捨て時代を考える会相談役 槌田 劭

 福島原発の過酷事故によって、3月11日は日本の文明史上で大転換の日となるだろう。バベルの塔の崩落を連想し、もの豊かさの前途を思った。古代バビロニアの人たちは、その繁栄を誇示し、天に近づこうと巨大な塔を建てたという。その愚かで傲慢な試みを神は許さなかった、という伝説である。
 現代の文明は大量の地下資源を科学技術の力で利用し、物量豊かな生活と社会を実現している。もっと大きく、もっと豊かにと、人びとの欲望は肥大し、お金さへあれば、その欲望は満たされた。科学技術は魔法のように夢を次々に実現した。その前には不可能はないと、傲慢になり、「神の技」と錯覚する危険へと誘惑された。人間の矮小さを忘れて、「安全神話」の落とし穴にも気付かなかった。
 福島原発の過酷事故はまだその全貌が見えない。事故収束の目途も立っていない。被害は想像を絶するのか、と心は痛む。原子力の専門家にとっても、うろたえる他なかったのだろう。言い訳としても説得力のない「想定外」を連発した。
 安全のためには、十分配慮し、必要な費用は用意されるべきであるが、利潤追求と矛盾する。「想定したくない心配」は「想定不適当」となる。地震津波の過小評価はその故である。その意向を受けて、狭い専門の殻に閉じこもって研究する専門家たちは、自己過信を背に「安全神話」をばらまくことになった。
 そもそも、原子力のエネルギーは強大すぎて、手なづけ可能と信ずること自体が傲慢なのである。人間も動物であって、室温程度の生物的化学エネルギーで生きている。燃焼の火は数百度以上の温度であり、室温より高くはげしい化学反応である。数万年間、火傷、火事などのしくじりを重ねて、やっと手なづけてきたのである。それでもなお、「火の用心」が必要である。核エネルギーは、温度で表せば数万、数十万度である。原子力を制御できるなどとは危険な思い上がりである。
 「失敗は成功の母」といわれる。科学技術は、しくじりに学んで進歩発展するものである。原発は投資額が巨大すぎて、試作品による実験もできない。危険すぎて、過酷テストなどとんでもない。欠陥品とわかった原子炉でも、投資額が大きすぎて廃炉にできない。福島第一の事故炉は老朽の欠陥炉であった。「安全神話」を信ずる危険な「宗教」に堕落する以外に道はなかったのだろう。そして悲劇的な破綻となった。
 もの豊かな文明生活は大量のエネルギー消費でなり立っているが、その本質は何だろうか。消耗し再生することのない地下資源の利用は現代人の特権ということだろうか。今さえ良ければよいのなら、未来の子孫に対する侵害である。利己的祖先を持ったばかりに、未来の子々孫々は、資源枯渇に加えて、自分たちの利用しない電気のために生み出された放射性毒物の管理に苦労することになる。
 代替エネルギーの有無にかかわらず、脱原発以外に幸せな未来はない。子々孫々の幸せを無視して成立する利己主義の社会に幸せがありうるだろうか。刹那的利己的なエネルギー多消費に東縛される文明観からの自己解放が課題となっている。現代のバベルの塔は、「安全神話」とともに、崩れ落ちたのである。

 つちだ・たかし 1935年京都市生まれ。京都大助教授(金属物理学)、京都精華大教授を歴任。地下資源に依存する大量生産大量消費社会に疑間を持ち、73年に市民グループ「使い捨て時代を考える会」を結成、有機農業を軸に生産者と消費者をつなぐ運動などに取り組む。日本有機農業研究会幹事。宇治市在住。