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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

座を立って外に歩みでていいのです

最近、また閣僚の暴言が報道され、いやな気持になっています。
ある閉ざされた大会で暴君が放ったものでしたが、
そこにいる観衆と共に他者を貶め
観衆を共犯者に仕立てて憂さをはらそうという誹謗中傷です。
そこにいた人々も一緒に拍手することで、逃れようもなく汚れてしまったはず。
しかしそれが批判的な文脈であれ一般紙に、惰性のように報道された意図も分かりません。
いつからこの社会は言語の次元で醜い絶対君主制になってしまったのか。
またひとつ汚されたモラルが
会場のくすんだ闇からこの社会に流れでたかと思うと
おのずと目を閉じてしまいます。

昨日のつづきです。

阪神教育闘争で殺された少年金太一(キムテイル)や
戦時中にハングルで詩を書いたかどで尹東柱(ユンドンジュ)の
思いと苦しみに焦点を当て
彼らの内部をみたし、あるいは外部を取り巻いていた闇(あるいはそこに点滅もした光)を想像することが日本人には今とても必要です。

「ひとの苦しみを苦しむためには、苦しんでいるひとが大事にしているものを、私たちも大事にしている必要がある。」(アルフォン・リンギス『汝の敵を愛せ』)

二人にとってそれは
まず民族としての尊厳であり民族の文化であり朝鮮語でした。
一方で具体的には大切な家族であり、親しい友人だったはず。
そして日本人をも含みこむ次元としては
人間が人間らしく、他者を自分と同じように尊重する全体的な存在であることを
望んでいたでしょう。
だからかれらは想像の果てに反戦と絶対的な平和の光も幻視したにちがいありません。

もちろん日本人にも一貫して、日本人の側における「大事なもの」を求めてきた歴史があります。それを求めつづける人々の努力があったればこそ、平和と社会が保たれてきたことは事実ですから。

日本人と朝鮮人は互いにとって鏡のように存在であればいいと思います。
私たちが想像する他者の苦しみ
そして苦しみながらもなお生きることを肯定する他者の喜びの力
思い切ってそれらのありかに私たちの顔を映し出せば
現在私たちが自己防衛するかのように持たざるをえない不透明であいまいな顔を
人間らしい美しい表情へと変わりうるものにできるはずです。

どこかの会場の閉塞した薄闇の中で
専制君主から不気味な情動を一方的にかきたてられる苦痛からは
もう解放されましょう。
座を立って外へ歩みでていいのです。