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詩空間

河津聖恵のブログ。この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

辺見庸『国家、人間あるいは狂気についてのノート』(毎日新聞社)�B

現在の正気然とした表層を「視かえし」、
狂気の実相をあばくこと。
それは抵抗というよりも
(辺見さん自身「ことここにいたって抵抗などという、そらぞらしいもの言いをする気はない」と書いています)、
まさに
「晴れやかな明視界にたいする」
「わたしの暴力」です。
私は死者のようでありながらも、
まだ生きている証として
身を潜めた暗視界から「視かえす」という暴力だけは忘れてはならないのです。

筆者の奥底からの眼力=言葉の力である暴力が
見事に暴く
かつてと今、この国の言葉と声がまつわらせ続ける毒霧。
「口中の闇あるいは罪と恥辱について」の章は
私にそれこそ無限の作業仮説をもたらした文章でした。

一九四二年中国・山西省の陸軍病院で
日本人医師と看護婦による
中国人の「患者」に対するおぞましい生体手術演習が行われました。

日本人医師たちは男性の「患者」に手術をしようとしました。
「ところが、『患者』はおびえていっかな手術台にあがろうとしない。そこで日本人看護婦が進みでて『患者』にむかって彼の母国語で『麻酔をするから痛くありません。寝なさい』と優しく囁きかけたところ、患者はうなずいて手術台にあおむいた。看護婦は医師をふりかえって〈どうです、うまいものでしょう〉といわんばかりに笑いかけ、ペロリと舌をだしてみせたのだという。その際、白衣の彼女がふとかいまみせたであろう開口部。ならびに赤い舌先の、つけ根あたりに漂う暗がりに、私は首を深くつっこんで仔細を覗いてみたいほどのつよい関心がある。だが、口腔の闇は相当の時をへたいま、どのように変質したのか。グラデーションのありようはどうなのか――という興味に較べればどうということはないかもしれない。闇の今昔における、『いま』という開口部のさり気なさ、底深さこそ、まさにそここそ、密やかで果てしのない罪と恥ずかしさを感じるからだ。」

患者はばらばらにされて殺されました。
この「舌ペロリ」の看護婦は
約半世紀後に、戦犯として裁かれて帰国した医師と再会します。
しかし彼女は生体解剖があったことは漠然と覚えていても
「舌ペロリ」も含め具体的な光景は忘れていたそうです。

「彼女の咽頭から口蓋、開口部にかけてかすかにたなびくミストグリーンのうす暗がりを私は思い描いたものだ」。

想像の闇の中で著者の鋭い色覚がつかんだ「ミストグリーン」。
これはまさに「真景」です。
「ミストグリーン」は「グリーンミスト」だと「毒霧」になるからです。
それは「口から霧状のものを吹き付ける
日本人プロレスラーがよく使うプロレスの技」です。
緑の毒霧の場合は「グリーンミスト」といいます。
基本的には反則技です。
レフェリーが目を離した一瞬の隙に技が繰り出されるとのことです。
攻撃目的以外に、威嚇目的、あるいはパフォーマンスとして使用される……
そのような「グリーンミスト」または「ミストグリーン」とは
責任や倫理や真実を正面から問われた時に
この国が取ってきた態度一般を表現するのに
とてもふさわしい比喩ではないでしょうか。
もちろんそれは政治家だけにはかぎらず、
戦後を生きた人々の
戦争の記憶の隠蔽や意味のねじまげに通ずるものだと思います。

看護婦の口腔のミストグリーンと共に
新米医師の「両の手の感触」もまた
生々しい「真景」として私に迫ってきました。

解剖室に連行されてきた「患者」は二人だったそうです。
一人は覚悟をきめたのか悠然と手術台にのりましたが、
もう一人は恐怖のあまり後ずさりをしはじめました。

「ややあって農民ふうの男が、後に証言者となる新米軍医のすく眼の前までずるずると後じさってくる。おそらくは、歯の根もあわぬほど躰をふるわせながら。新米医師はそこでなにをしたか。当時その場にいればだれもがやったであろうことをやったのである。逆にいえば、だれもやらないであろうことはやらなかったのだ。つまり、両の手で彼の背を手術台のほうに押しやったのである。」

この医師の行為を、今いる安全の場所から、私は責めることができるでしょうか。
私もまたその場にいたら同じことをしたのではないでしょうか。
しかしだからと言って
そのように正当化することで、
一度想像によって目撃させられた光景を忘れて
安全圏に戻ることはできるのでしょうか。
「舌ペロリ」の看護婦のように忘れることは出来るのだろうか。
しかしそれが
当時の実景を超え、今このときの「真景」あるいは「実相」を表すのだとしたら
忘れるどころか
何度も繰り返し手術室の人の輪の中におのずと立ち戻らされる
倫理の強度がもう生まれているのではないでしょうか。

手術台を取り囲む
「ユーモアも人情も解する」「およそはげしく疑るということのない、こよなき正気の輪」は、
同心円内に今このときを「いっかな逃れようもなく」含み続けていく。
この国の差別の構造が変わらないかぎり。
七十年前の手術室の光景はまさに
枚挙にいとまのない差別の事実を積み重ねる日本という国の
現在のマイノリティとマジョリティの関係にひそむ
狂気の実相そのものなのです。

現在の差別について、そして戦争責任について、
これまでおびただしい言葉と議論が生まれてきました。
しかしそれでもなお
なぜこの国に「人倫」というものが動かなかったのでしょうか。
それらの言葉は「人倫」を動かせなかったのでしょうか。
それは今石臼のように
どうにもならない底に重く沈んでいるように見えます。

しかし私はすでに
著者の描写をとおしてこの生体解剖に立ち会ってしまった。
現在というものの「真景」を突きつけられてしまった。
このような「真景」は
「ひとたび光景の一端を知ってしまえば、時を超えて無限の作業仮説」
を強いてくるのです。
それは私たちの「人倫」を動かす力があるのです。
「もう抜けでたと思っても、ふと気づけば私はかならず輪の圏内に立っている」。
そして無限に立ち戻る私はつねに輪の内で
舌ペロリの看護婦に笑みさえ返し
患者のふるえる背を両手で押し戻してしまう。
何度も何度も。
しかしそのように「あえて輪の圏内にみずからを立たせてあれこれ試問しつづけるにしくはない」のです。
なぜならその作業こそが
みずからの内奥から恐怖と罪と恥辱を
おのずとそして決定的に抉り出していくから。
その「試問」=「審問」は酷薄ですが、
しかしむしろその酷薄さゆえに
現在の「石化、狂気」を「生き生きとした死、活発な石化」に変えていくのです

そのような「真景」を突きつけられ
突きつけることこそが、
この国の底に横たわる死んだ神の眼を
うっすらと、しかしたしかにひらかせていくはずです。