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詩空間

河津聖恵のブログ。この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

2月4日京都新聞朝刊・詩歌の本棚(新刊評)

                                      河津聖恵

 昨年十一月、没後二十年を記念して『北村太郎の全詩篇』(飛鳥新社)が刊行された。北村は鮎川信夫などと共に『荒地詩集』に参加した。その詩の基底には、戦争から戦後にかけての切実な実存感覚がある。散文脈の行分け詩によって、小さな生の時間の軌跡を、日常の次元から歴史へと巧みに刻み込む。すぐれた直喩と共にあるその手法は、新たな戦後詩とも言える3.11後の詩に、大きなヒントを与えるだろう。
「何によって、/何のためにわれわれは管のごとき存在であるのか。/橋のしたのブロンドのながれ、/すべてはながれ、/われわれの腸に死はながれる。/午前十一時。/雨はきしる車輪のなかに、/車輪のまわる音はしずかな雨のなかに消える。/街に雨はふりやまず、/われわれは重たいガラスのうしろにいて、/横たえた手足をうごかす。」(「雨」)
 北村真『ひくく さらに ひくく』(ジャンクション・ハーベスト)は、言葉が詩という圏内に引きこもらず、みずからの生の時間と低く静かに重ね合わせられる。その接点としての比喩やイメージが、散文脈を詩へとふうわり浮上させる。そして隠されていた現実の深さと生の高度が回復される。3.11以後の詩のあり方としての「ひくく さらに ひくく」。そして「低く」は「深く高く」。
「さらにです/ひくく もっと ひくく/高度をさげてください//フェンス越しに/六号機の建屋が見える森のなかを/さらに ゆっくり/ゆっくりと 降下してください//ひんやりした/風がながれている岸辺の草花に/幼い指がふれようとするあたりまで/おりてきてください//日々くりかえし/わずかな被曝をうけ変色する/おしべの毛がみえる場所まで//おともなく/においもなく/洩れつづける/放射線をあびながら」(「ひくく さらに ひくく」)
 照井良平『ガレキのことばで語れ』(詩人会議出版)では、故郷陸前高田の瓦礫の原という原点に立ち続けようとする意志で、新しい詩の次元を模索する。表層的な散文でもなく、現実から遊離する象徴や隠喩でもない、「ガレキのことば」を探している。、「ことばのガレキ」など存在しないから。人間は今なお、あるいは今こそ、言葉を与えられた責任と僥倖を、想うべきだから。
「ガレキの中を歩けば/とげとげしく突き刺すガレキのことばが/容赦なく生き身の身体を/四方八方から襲い/八つ裂きにし/たまらず 傷口が/ふつふつと湧く虚なことばで溢れだす/ところかまわず狂い咲く/そこまで/どっぷりガレキに浸かるまで歩いて探せ/ことばがないなどとは言うな/ことばで語ることができないならば/ないことばで語れ/ガレキのことばで語れ/ガレキの涙のことばで語れ/そこに遺影がある/ことばの/遺影がある」(「ガレキのことばで語れ」)
『言葉の花火2012』(竹林館)は、二〇〇〇年から三年ごとに刊行されてきたシリーズの第五集。今回から全て横組み、日―英見開き頁となった。多くがストレートに伝わる散文脈だが、翻訳され世界へ発信する意識がそこにあるのだ。
「もはや一年が経ってしまった/啓蟄を過ぎたばかりの土のなかからは/蟻も みみずも 蛙も 蛇も 出てこない/得体の知れないボロや瓦礫だけが掘り出される//うなだれた頭を左右にふって仰向くと/寒い夜空に震える光線を送ってくる小さな星たち/下界の生きものに無言でまばたく/果てなく生きつづけている魂の星たち」(有馬敲「星鎮めのうた」)