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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

12月17日付京都新聞朝刊「私論公論」に書きました

Pa290402 本日付京都新聞朝刊「私論公論」で朝鮮学校への無償化適用停止についての私なりの意見を書きました。 

朝鮮学校への無償化適用停止 教育に政治介入させるな

                        詩人 河津聖恵   

 朝鮮高校への高校無償化適用の手続きが突然停止された。朝鮮半島情勢を受けての事態の「迅速さ」は、機に乗じた形での暴挙だ。国と国の関係がどうあろうと、政治を教育に介入させてはならない。学校は、子供達が安心して自尊心と知的喜びを育める場所であるべきだ。それが高校無償化法の方向性だった筈だ。
 
 今年四月に始まった同法は、前拉致担当相が朝鮮学校の無償化に反対した事実が浮上し、同校への適用を見送った。その後文科省は専門家会議を設け議論し、八月に教育内容を問わない方針を決めたが、結論は出なかった。民主党が同方針を認めた後、朝鮮半島情勢が緊迫化した。手続きが停止されたのは、改めて審査を受けるため、各校長が書類を作成していた最中である。結論を先送りし続けた政府は、幾度も生徒達の心を傷つけたが、今や決定的な苦しみを与えている。
 
 二月上旬、たまたま京都朝鮮中高級学校の授業を見学し、真剣に学ぶ生徒達の姿に接していた私は、除外に衝撃を受けた。やがて同校をめぐる「言論状況」を目の当たりにし、居ても立ってもいられなくなった。ネットやマスコミ、そして政治家まで加わったバッシングは、朝鮮学校だけでなく、日本語そのものに刃を向けていた。他者を苛める残酷な人の心と、壊れきった私達の母国語の姿。私はいつしか事態を、言葉に向き合う自分自身への脅威と受け止めるまでに至った。
 
 しかし多くの詩人が同じ思いを抱いていた。除外反対を呼びかけるとすぐ賛同の輪が拡がった。3月には9名で抗議のアピールを、4月には24名で文集を、八月には79名で詩集を出した。平素は主に言葉の彫琢に関心を持つ者達が、差別問題で抗議をするのは異例だが、それ程詩人の本質に訴えるものが、この問題にはあったのである。この国の言葉と魂が陥っている深刻な危機に対し声をあげたと言える。炭坑でカナリアが鳴くように、詩人が感受した危険を知らせたかったのだ。
 
 朝鮮学校は、戦後次々と生まれた国語講習所から出発する。先日テレビで、習いたての朝鮮語を唱和する当時の生徒達を見た。彼らは新鮮な水を飲むように嬉しそうに、「ウーリーハッキョ!(私達の学校)」と何度も唱和していた。植民地時代に奪われていた母国語を使える喜びが、画面から強く伝わってきた。
 
 60年以上経った今も、母国語を教える朝鮮学校の存在意義は変わらない。差別のなくならない現実の中で、「自分とは何者か」を常に突きつけられる生徒達にとって、母国語は心の柱だ。それを学び使い、自分を朝鮮の歴史や文化に結びつけることで、彼らはアイデンティティを自覚し実感出来る。さらに日本語を母語とする三世四世にとって、同校で母国語を学ぶことは、砂漠で水を飲むことに等しい筈だ。ここは、日本で母国語の水を思う存分飲める唯一の場所である。
 
 朝鮮学校には今も、母国語の水を浴び、大人へと育つ子供達の姿がある。彼らは言葉を通し感受する世界の奥深さと、日々発見する未知の自分に目を輝かせている。その光を再び奪ってはならない。朝鮮学校無償化除外問題とは、苛酷な競争の中で母国語を慈しむ機会もゆとりも奪われ、言葉に対する愛を失いつつある日本人自身の問題である。