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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

辺見庸『愛と痛み』(毎日新聞社)

一昨年に出た辺見庸さんの『愛と痛み』(毎日新聞社)は、死刑制度の本質を鋭く言い当てた本です。Image634

「死刑を執行する五つのボタンの先に私たちは存在している。死刑は私たち世間が支えているのです。それを私たちは「黙契」tacit agreementと呼ぶ。明文化されず、契約書を残さず、暗黙のうちに互いの意志を一致させ、私たちは沈黙したまま暗い約束を交わしているのです。黙契のなかで口を閉ざしたまま死刑を委託しているにすぎません。だから私たちは目にしません。死刑囚が鼻血をだし、眼の玉を飛びださせ、舌を剥きだし、失禁し、脱糞し、射精し、痙攣しながら死んでゆくのを見ずにすむ。まるでゴミ処理のように人まかせにして自分は安全なところにいる。
 ここに例外はありません。つまり、死刑に反対する人も、意図せずともそれに加担していることに変わりない。また死刑反対論のなかには、その主張をみずからの身体にかかわらせないかぎり、死刑を生産していく余地がどこにある。それほどに死刑という問題は困難なのです。」

 この「黙契」という言葉は、三年前の京都の辺見さんの講演会でもキーワードでした。「裂け目を隠し、日常を成り立たせる暗黙の了解」。

あの時も、映画「ダンサー・イン・ザ・ダーク」の話(ヒロインが、死刑の際ボードに括り付けられ骨折の音まで入っている)や、この国で前年のクリスマスの日に、自力で歩けない老人を両脇を持って抱えあげてまで、死刑台に運んだという残虐な事実を、身の内から訴えられていました。私は、会場の闇の中で、クリスマスの残酷な賑わいをまざまざと見るようでした。足が萎えた老人の体の重さのかかった、喧噪と輝きを。 
 
 この「黙契」こそ、人間が真実に生きるために、うちやぶらなくてはならないものだと私も思うのです。しかしもちろん、強制してやぶれるものではない。自分自身の内側から、内側を縛っている鎖を解くことにひとしい。とても難しいことです。

 しかしそのためにこそ言葉があるのではないでしょうか。言葉によって縛られている人間は言葉によってしか解放されない。詩や文学の使命とは、読む人がその人自身の内側から「黙契」を自発的に乗り越えていき、離脱するために、触発やナビゲーションをすることではないでしょうか。そしてそれは、死刑制度においてだけでなく、私たちが無関心であるすべての問題において、誰しも免れない(黙契に加担した)加害者性を私たちの魂に突きつけ、なかなか傷つかない私たちの日常を傷つける、力と勇気のある言葉ではないでしょうか。

「「人間」はつねに加害者のなかから生まれる。被害者のなかからは生まれない。人間が自己を最終的に加害者として承認する場所は、人間が自己を人間として、一つの危機として認識しはじめる場所である。」(石原吉郎ペシミストの勇気」)

 この本を読んでから、「愛と痛み」という組み合わせが、私の言語体系に刻まれました。ここには大変深い思考があるのですが、それはまた──