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詩空間

河津聖恵のブログ。この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

小樽小紀行―2月20日多喜二の命日によせて�B

翌27日の朝の、泊めていただいたお宅の外の景色です。

昨日とは一変、すばらしい青空。

見たこともないような、まるでこの世の滋養のようにこんもりとつもった雪が朝の眩しい光にきよらかに煌めいていました。

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この日はまず、小樽商科大学を訪れました。

この大学の前身は、多喜二の卒業した小樽高等商業学校です。

当時、小樽高商には大変自由主義的な雰囲気があったそうです。マルクス主義などの社会思想研究や、

商業学校ならではの語学教育が深まり、文学もさかんでした。

多喜二は校友会誌の編纂にも携わり、

文芸欄にほぼ毎号寄稿しました。

高商は、まさに作家の才能を揺籃した時空だったのです。

小樽商科大学となった今も

海を見下ろす図書館の、ゆったりとしたスペースで学生たちが熱心に勉強していました。

この図書館には多喜二の蔵書も保管されています。

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それから埠頭に行きました。

明治期の倉庫や銀行の洋風建築が深々とした雪の中に建っている風景は

どこか遠い北の異国のようです。

運河も雪に埋もれていました。この埠頭はもちろん『転形期の人々』や『工場細胞』など多喜二の多くの小説の舞台になっています。

かつて戦争景気で貿易港として栄えた、軍港でもあった小樽港。

しかしそのような近代化の光の面とは反対に

やがて不況の波が弱い者たちを追い詰めていきます。

多喜二の小説に出てくる

女工から身を落とした女達もこの埠頭に立っていました。

落ちた豆をひろう貧しい女や、安い値段で船員に身を売る女たち。

こんな雪の日には彼女たちはどうしていたのでしょうか。

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こんな見事なつららは見たことがありません。

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埠頭から祝津に向かいました。

幕末から明治期までニシン漁で栄えた町です。

当時の網元の番屋が保存され、往時をしのばせています。

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埠頭からほど近い手宮公園です。

ここでは1926年に小樽で初めてのメーデーが行われ

三千人ほどが集まったそうです。

第一次大戦の戦争景気が終わり、慢性不況が続く中で、

小樽ではメーデーに続いて1927年には磯野小作争議、そして港湾労働者の争議が立て続けに起こります。

前者では多喜二はあまり深く関わりませんが、後者では作家の力量を活かしてビラ書きも手伝います。

そしてやがて前者の体験は『不在地主』、後者の体験は『転形期の人々』『地区の人々』に結実していきます。

1926年のこの公園でのメーデーでは

朝鮮人労働者も参加し、演説もしたそうです。

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手宮公園のあとは、遊郭のあった場所に行きました。

写真は松ヶ枝の南郭があったところです。

ここも道路が雪で埋もれてますが、通常よりもずいぶん広いことに気づきます。

当時、遊郭は火事が多く、類焼防止のために道路を広げたそうです。

多喜二の時代の小樽には、ここと手宮の奥の北廊、そして多喜二の恋人のタキが働いていたような

非公認の売春宿が点在していました。

公娼、私娼合わせて六千人を数えたそうです。

貧困のために家族のために、そして借金のカタに身売りされた女性たち。

そういうエピソードを重ねて見ると、雪はさらに哀切に美しさを増すようです。

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それから水天宮です。

ここは恋人タキと多喜二のデートコースです。

1924年に銀行員となった多喜二は、当時酌婦だった田口タキに出会います。

美しいタキに恋愛感情を抱いただけでなく、酌婦という絶望的な状況から踏みだそうと苦しむ姿に、

「個人の力の強さ」を感じます。

後にプロレタリア文学の旗手となった多喜二に求婚されますが、

タキは自分が重荷になるのを恐れ身を引きます。けれどその生涯を通してタキの存在は多喜二の根底で輝き続けていたのでしょう。

この雪の輝きのように。

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まだいくつか多喜二ゆかりの地をご紹介しきれませんでした。

この夜も、小樽詩話会の方々との詩心を触発される歓談のひとときを持てました。

来年はぜひ多喜二祭にも参加したいと思います。

夏の小樽の美しさも味わってみたいものです。