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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

風の根

ただ手探りで、私は詩を書いていきます。
パソコンの画面に現れる言葉は、上から下へ、上から下へという運動を繰り返します。
なぜなら、散文体ならばどこからでも、内部からも外部からも
飽きるほどいくらでもやってきます。
まずはそれを受け入れる。
まるで雨が破れた袋にふりそそぐように。
あるいはそんな風にとても弱くなっている私の「今ここ」に
生物と無生物のあいだの?コトバたちがやみくもに襲いかかるように。

しかしそれは上から下でありながらも
本当は螺旋状に渦を巻いています。
いらいらと、うつうつと、はらはらと、ふつふつと
中心はほらすぐそこにある。
それは「今ここ」から少し外れた外部へと、ねじれて脱けだす向こうに、
もう視えている。
会いたかったあなたがそこにいる(ずっとそこに生きている)
触りたかったけものが息づいている(ずっとそこに死なないでいる)

もう少し、私の存在が渦をつよめ、螺旋を生きるならば、
私は矛盾のエネルギーから先に指を浸し、キーはおのずとおのれを踏み外し
「今ここ」のひどい衰弱の痛点を指し当てるはずです。
一度書き始めたのならば、それでも生きようとふるえあおぐ私の生の撞着のありかに、かすかに到達し、未知の動物のエネルギーにふれうるまで、書かなくてはならないのでしょう。
「黒い光」
「黒いミルク」
あるいは「風の根」と。
そう、その時を逃さず、まるで風の根のように「そこ」をつかむのです。
今このときにいつしか眠り込み、途方もない闇に滑落しないために。

閑話休題

ふたたび、辺見庸さんの『生首』から、「風」という詩から。
「風の根」とは何と美しく切実に
私たちの存在の矛盾を言い当ててくれるのでしょう。
この詩は、(私の記憶が正しければ)京都での講演会で辺見さんが話された、亡くした大切な友人への鎮魂歌として書かれたものです。
引用部分末尾の「ことばの掩蔽を要しない/透けて 深いなにかだ。」とは、かつてない非在の絶妙な表現だと思います。

そちらにわたると
風の根っこが視えると聞いた。
それについては
ラピスラズリのやれ
露草のやれ
紺青のやれ
スマルトのやれ・・・・・・・
いろいろいうけれども
なに こちらの言い草を
貼りつけているにすぎない。
まなかいをかすめて
青く吹きわたる風の
その根は
そちらにわたらないと
視えはしない。
こちらの名状など どのみち
信じるに足りない。
まして
風の根を視たことのない
生者の言葉など。
群青だの瑠璃だの縹(はなだ)だの
マドンナ・ブルーだの・・・・・・
きいたふうな形容は
まったく信じるに足らぬ。
風の根は たぶん
名状を要しない青だ。
ことばの掩蔽を要しない
透けて 深いなにかだ。
(後略)