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詩空間

河津聖恵のブログ。この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

6月17日付京都新聞朝刊/詩歌の本棚・新刊評

6月17日付京都新聞朝刊/詩歌の本棚・新刊評           

                                          河津聖恵

 薔薇が美しい季節である。この季節にはいつもリルケの薔薇の詩を思い出す。十九世紀末から二十世紀初頭、近代化と戦争を介し、人の生と死の意味が根本的に転換する時代に生きた詩人は、生涯薔薇を詩で称揚した。単に美しかったからではない。外へ咲きほどけながら、内から新しい花弁があふれる開花のありように、ゆたかな内面が外部の悲惨な現実を乗り超えやがて世界を満たすという、人の世の理想を見たのだ。やがてそれは「世界内面空間」と名付けられ生涯のテーマとなる。「そのおおくの薔薇は/みち溢れ 内部の空間から/日々のなかへ流れでていく。/そして 日々はますます豊かに完結し、/ついに夏が そっくりそのまま/ひとつの部屋に、夢のなかのひとつの部屋になる。」(塚越敏訳「薔薇の内部」)
 岩堀純子『水の感触』(編集工房ノア)は、生と死と愛をめぐる根源的感情を、内面の暗い水底から、夏の光の煌めく詩の水面へと掬い(救い)上げている。ぴんとはりつめた詩人の「ストイシズム」を軸に、まさに水面が映像を映し出すように的確な比喩や心象が生まれている。詩の重心には、生涯言葉を話さなかった姉と、死にゆく孤独を黙して耐えた父母の傍らに、最期まで付き添ったいのちの記憶がある。本詩集の詩は愛おしい者たちの死後、故郷で三ヶ月で書かれた「はじめての詩」だったという。詩はまさに、蘇生の夏の光そのものとして現れたのだ。
「生まれたとき/わたしは川底に躰を横たえていた/岸辺の草の穂に露がおり/水面を無数の光の玉が/水晶のように輝いて/流れていた/冷たい水に/草木の緑の翳が融け/高い空の青空も融けて/いくつもの光の筋が/川底の砂に/わたしの躰に/すきとおって降っていた/川を遡る魚は/青い銀色の光をはなち/藻のあいだでゆれるたびに/不思議な色に変わる/水は雨だれの音を鳴らしつづけ/風はチェロの音色を/低く響かせる//いまでも時おり/わたしは思い出す/あの硬質な水の感触を」(「水の感触」)
  荒木時彦『memories』(書肆山田)は、アフォリズムのような短い文章が、1から60まで番号を付せられている。各篇は断片的でそれだけでは詩とは言いがたいが、相互にはたしかに詩的連関がある。詩人は「永遠の一日」の、そのまた小さな永遠としての一瞬を、内部から外部へ点を穿つように記述していく。内部から現実に小さな穴を開け、封じ込められていた自由を密かに解放するのだ。やがてひんやりとした未知の孤独に佇みながら。
「カエデの葉が、水を求めたので、/その土地には、雨が降るようになった。」(16)「僕は愛している。//何を?」(17)「夜が明けない。/いつまでも、夜が明けない。」(18)「距離。//点と点を隔てるもの。移動を要求するもの。想像力を弱らせるもの。僕ときみを結ばないもの。」(31)「なぜ、こんなにたくさんの人がいて、僕は一人なのだろう?」(54) 
 佐々木果歩『よるのいえのマシーカ』(ふらんす堂)にある言葉たちは、歌と物語の境界にある。「とろとろ」と夢見る内面の波動のまにまに揺れている。そしてここにも薔薇が―。
「小さな木でできた舟を船頭はこぎ/小雨をよけながら湖をくるり/そこに野薔薇という/少しくれたら、唄を歌います。/アスチルベ、自由 自由な魂といういみ/いばらの奥に親子のいきもの/背中に子供をのせているよと/船頭さんが教えてくれる/野薔薇、無意識の美しさ 無意識 と強調するいみ」(「野薔薇とアスチルベ」)