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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

「ゼロ年代」

ゼロ年代」という言葉を昨年初めて知りました。

文字通りには西暦 二〇〇〇 年から二〇〇九年までの十年間。
時代的な意味あいとしては、二〇〇一年九月十一日のアメリカ同時多発テロ構造改革新自由主義による競争社会とそれに伴う格差社会意識の浸透によって、いわばバトルロワイヤル的な(生き残りをかけ自分の力だけを信じて闘う)生き方が主流となった時代、とでも言えるでしょうか。またその就職氷河期に社会に出た世代を指すこともあります。

これを初めて知ったのは、昨年の現代詩手帖4月号の特集タイトル「ゼロ年代詩のゆくえ」からでした。

はっきりいって、私はこの言葉が好きではありません。

まずゼロというカタカナ表現が嫌です。開き直っているみたい。響きを露骨に押しつけるのも気持が悪い。積み重ねられてきた歴史を、スルーするシニシズムを感じる。

しかしだからこそ、文字表記も響きも、この時代の空気を大変巧く表現した言葉だと思います。

でもなぜこの言葉が、実質的なゼロ年代が終わりかけに喧伝され、それが終わった今も、時代を名指す言葉として使われるのでしょうか。閉塞した状況をゼロにしたい気分は伝わってきます。

恐らくそれは、空洞化した用語としての「左翼」と対をなして生まれたのではないでしょうか。ネット上で顕著だと思いますが、歴史にきちんと向き合おうとする姿勢や、弱者へ寄り添おうとするまっとうな魂のあり方を見せれば、まるで危険を察知したように、話もきこうとせず、左翼だ左翼だとつめよってくる人々がいる。恐らくゼロ年代以下と思われるその人たちは、そう連呼することで、「左翼」を差別語にしていくのです。しかし逆に「ゼロ年代」といくら連呼しても、それは差別語にはならない。「ゼロ」の開き直りはそれだけ強烈なのです。

現代詩においても、すっかりゼロ年代的な価値観が、うっすらとですが、覆い尽くしています。現実やその基となる歴史との緊張関係からしか、詩は立ち上がってこないはずですが、そういう詩との対し方は面倒臭いのでしょうか。

しかし、じゃあおまえはゼロ年代的なシニシズムから免れているのか、といわれれば、即答できない自分がたしかにいます。けれどゼロ年代とは何かについて、その時代を生きてきた自分自身と対話しながら、その言葉と時代の罠を自覚しておくことは必要ではないかと思うのです。詩を、時代を昇華するというスタンスで書くために。