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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

エクリチュール再生?

「絶対に現代的でなければならない」
とたしかランボーは言ったのだと思います。

もちろんその「現代性」とは
自分は一個の他者である、とか
見者でなければならない、という
いわば「社会性」とひとしいはずです。

現代詩とはなにかをかんがえるとき
やはりそういう意味での「現代性」を考えなくてはなりません。
つまり現代詩には
自分と他者、自分と社会との今このときの境界線を
ちらちら燃やしてみせるエクリチュールの気概こそが必要です。

ここでエクリチュールといったのは
現代詩手帖」10月号の特集「エクリチュール再生」には
ちょっと驚いたから。
朝吹亮二氏と松浦寿輝氏の対談ですが
80年代の二人の世界が
何も変わらず、むしろシンプルな古典のように見事に再生されていて、
最初意味が分かりませんでした。

たしかに80年代に出現した「微細な詩人たち」は
現代詩のワンシーンをいろどったのですが
もちろん今、あの冬の時代を再現されてもどうしようもありません。
あの時、「密室」の幼年期的な冬のさむさに
詩の口唇がふるえる思いに、私もとらえられたものでしたが。

二人はあの時代を知らない若い人々に語りかけているのでしょうか。
それならばかまわないのですが。

しかし
エクリチュールは歴史的な連帯行為である」
というロラン・バルトの原義とは、
ここでいわれるエクリチュールは違います。
私には、お二人のいう「エクリチュール」とはむしろ
個人の肉体や閉ざされた記憶につよくむすびつき
あくまでも他者からは秘密として隠されている(やはりバルトのいう)「文体」
ではないかと思われます。

定義は厳密にすることが必要です。
正確を期すためというより、
定義がズレているならば
そのズレからこそ実りある議論が生まれるのですから。

あるいは二人のいうエクリチュールはバルト的なそれではなく
あくまでも日本固有のエクリチュールではないかと私は感じます。
だとすれば、日本語や日本文化や日本社会との境界線を
もっと意識的にちらちらと燃やしすことが必要なのです。
そこからこそ、あらたな詩的展開がはじまるにちがいありません。