人間の空洞化は言葉の空洞化を引き起こし、
さらに人間の空洞化を引き起こしていく。そして言葉の空洞化が進行し、さらにまた・・・。
「まるで謎のダークエネルギーが作用したかのように、表現容量が縮小してゆき、わざとらしいもの言い、そらぞらしい文言が横行しだします」
連呼される言葉のむなしさ。
テレビから巷からきこえてくる声の響きの空々しさ。
「それとともに、空気圧が変化し、感覚が目づまりしたかのような息苦しさが社会を掩い、抑うつ気分が蔓延しました。」
3.11後のその「空気圧」は今も解放されていません。
むしろましています。
被災の現実を語る被災者の声も
原発廃止や放射能の不安を訴える人々の声も
遠のいていくだけでなく、まるでおのずからぐぐもっていくかのようです。
一時期、放射能や原発についての批判をし始めた詩も
ふたたび何事もなかったかのように
「私的日常の詩的表現化」を繰り返すことを心に決めたかのようです。
そのことなかれの風景、白々とした沈黙の気配──
しかし空気圧のつらさはいまだ続いているのです。
「身体(責任主体)の脱けおちた殻のような軽み、それゆえの酷薄、善意からでも悪意からでもない発語……そんなことが脳裡をめぐります。まちがいないことは、そのような言葉の国にわたしが生まれ育ち、大震災と原発メルトダウンをむかえたということです。」
「よくよく考えれば、ノッペラボウの言葉たちしか存在しない内面とは酷薄なものであるにちがいありません。うそ寒く、無意識ながら残忍な内面をわたしたちはかかえているのではないでしょうか。」
そう、
苦しみの当事者の声々がくぐもってしまったとすれば
マスコミが伝えないというだけでなく
声の主がこのような言葉の国の「残忍な内面」に絶望してしまったからではないでしょうか。
ふとアウシュヴィッツからの生還者である
作家・詩人のプリーモ・レーヴィを思い出しました。
徐京植さんの『植民地主義の暴力』の一節。
「生還して証言しようとするのは、その限られた世界─たとえばナチ強制収容所─に『外部があり、そこにはきっと証言を聞いてくれる誰かが、まさに『人間』が、いるにちがいないという期待が残されているからだ。かりに全世界が強制収容所であり、そこには『外部』などないのだとすれば、何のために生き残り、誰に向かって証言しようというのか。」
レーヴィも含め多くの詩人や作家が、
一抹の希望=投壜通信としてみずからのいのちを削るようにして言葉を綴ったのです。
闇におしつぶされたからこそ光を見ようとしたのです。
その引き裂かれた生涯の果てに恐ろしい悲劇が待っていたにもかかわらず。
日本にはそのような書き手として原民喜と石原吉郎などがいます。
辺見さんは第四章で両者に触れています。
とりわけ石原の「単独者」というスタンスをめぐりながら
3.11以後の言葉のあらたな可能性を模索する部分は
この本の核ではないかと感じます。