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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

「現代詩手帖」4月号

現代詩手帖」4月号が鮎川信夫を特集しています。
同誌五十年を記念した賞と連動した特集ですが、
いずれにしても詩的ジャーナリズムに一石を投じたはずの特集であり、
もしこの詩人が今必要であるとされるのであればそれがなぜなのか、
この雑誌はそれを詩という現象の現在的なありかとして示しているのかもしれない。
ならばとりあえず考えてみなくてはなりません。

同誌は一貫して鮎川信夫という存在を現代詩の始まりと支柱として据えてきたわけですが、
今このときに、あらためて鮎川を打ち出そうとする同誌の姿勢の背景には、何があるのか。
私はそこに「無縁社会」という現状に深くリンクするものを感じます。

「鮎川は生前からすでに時代の外にいたのである。もちろん生身の鮎川は存在していないが、『鮎川信夫』はそこにいるのだ。・・・同時代人として鮎川をあらためて感じるというのではない。つねにすでにそこに存在していること。触れた瞬間に、その『眼』の存在に気づかざるをえなくなるということ。それが『単独者』としての存在のありようなのかもしれない。」(編集後記)
この「単独者」は、北村太郎石原吉郎吉本隆明といった戦後詩人に共通するものでしょう。いわば戦中世代たちは戦争の渦中に、あるいは戦後の価値崩壊の中で、みずからの単独者というスタンスで、詩という価値を護ろうとしました。

私はかれらの作品や生き方にある点では共鳴しつつも
単独者というガラスの中で、戦後の荒地を彷徨しつづけるその「間接性」に
ずっと違和感を感じていました。

しかし今その姿はじつは大変現在的となったきたのかもしれません。
私は同誌に収録された鮎川の作品が、現在の若い詩人の作品ではないかと錯覚してしまったくらいです。

彷徨の先にある巨いなる虚空。
今ここを照らす曇り空の、間接照明的な仄白い光。
戦後かれらが抱え込んだそうした虚無が
今あからさまにこの無縁社会を覆っているのでしょう。
「あの光では生きることはできないのに
あの光だけで生きなくてはならない」(野樹かずみとのコラボ『天秤』より)
というような白色矮星の光が。

戦後詩を覆う光とは、無縁社会の単独者が頭蓋の中に抱え込んだ光と同じ光なのではないでしょうか。