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詩空間

河津聖恵のブログ。この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

12月16日付京都新聞詩集評・詩歌の本棚

 生誕百十年を記念し刊行された、林芙美子『ピッサンリ』(思潮社)が興味深い。全集未収録詩九十二篇を集める。『放浪記』で知られる作家は、小林多喜二と同じ一九〇三年生まれ。炭鉱町を行商して回った貧しい幼年時代の後、定住先の尾道で詩に出会いボヘミアン的な感性を発露した。欧州体験と作家としての従軍を経て疎開し、やがて戦後を迎える。四十七歳で亡くなる直前まで書かれた詩からは、時代と個、散文と詩の間で意欲し苦悩した女性の姿が浮かび上がる。特筆すべきなのは文語定型の戦争詩。初期の奔放で鋭敏な詩とは対照的に、そこにあるのは「投げやりな創作意識」と「主体の曖昧さ」だ。詩は、意に添わない状況をも韻律の力でそれなりにうたえてしまう点で、散文よりも危ういと痛感する。一時的とはいえ詩の自由を手放した芙美子には戦争責任があるのだが、同様に今詩を書く者にも、詩本来の自由の力を模索し、新たな戦前に抗う責任がある。

 加藤明彦『風の祈?書』(土曜美術社販売)は、「ものの魂を宿した存在」としての詩の言葉によって、死せる都市の魂を呼びさまそうとする。言葉は風景を具体的に描くのでなく、観念的次元で都市の本質を延々と抉り出す。煌めく観念語は詩だが、記述法は連用形の多い散文である。詩と散文の関係についての意識を研ぎ澄ます必要もありそうだ。だが静かな雨のように幽かな風のように、ここに書き込まれない「私」の魂の傷をなぞり続ける意志は、圧倒的だ。

「雨は降る/詩想に包まる母音のうえに/梢の密かな巣のうえに/綻び始めた夢のうえに/それぞれの音階を響かせて/手垢に塗れた祈?書を浄め/法典に刻まれた?神の咎を浄め/雨は降りしきる/書かれることのない余白のうえに/不治の病巣のうえに/?がれ落ちた記憶のうえに/碑の六緑青と赤く爛れた錆のうえに/失われた韻律の響きのように」(冒頭部分)

 田島安江『遠いサバンナ』(書肆侃侃房)の詩は、淡いメルヘンに似た語り口。軽妙な動物譚で、読む者を違和感なく詩的虚構へ誘い出す。けものへの親愛をモチーフとし、詩の中心を「私」からけものへ巧みに移すことで、言葉は未知なる故郷「サバンナ」へおのずと向かっていく。

「夕日がはじけ/草原に稲妻が走る/稲妻は火を生み/見たすかぎりの草原は炎で焼きつくされる/そのあとは/草木が芽ぶくまでじっと待たねばならない/餓死するか/待てるか/またたく間に日が翳り/草は芽を吹き/草原は緑で覆いつくされていくはずなのに/わずかな時間の裂け目を待てずに/旅にでる動物たち/サバンナ/(略)/わたしのサバンナ/夜になると少しずつ空気が冷えてくる/空から舞いおりてきた翼のとがった鳥/鳥はわたしの背骨に飛びのる/背骨がきしむ/旅する姿勢になる」(「遠いサバンナ」)

村田好章『空に選ばれて』(前川企画)の詩は、明示されない「私」の主観的記述で始まりながら、やがてふいに抜け出し、客観的な視点からウィットを効かせて終わる。第�W部は物語詩。今後は詩と散文との関係について、詩の側からさらに深めていくことを期待したい。

「ゆるいものを/流し込まれ/ゆるいまま固まり/骨の硬さも知らず/歩くこともできないのに/這って/どこへいこうとしているのだ/おまえは」(「無恥」)「夜の陸橋は/ヘッドライトの川に架かった虹//真上に立って下をみれば/時間だけが/ひかりの速さで流れてゆく//じっとみつめる/闇の目)(「俯瞰図」)