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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

辺見庸『生首』(二)

なぜこの詩集が、今私の心に深く届くのでしょうか。
低く、押し殺した声で、
明るい希望を決して与えないのに。
諦念やシニシズムへも解放してくれないのに。
「私」の死後や「私」自身の屍を見つめるつらさに満ちているのに。

直接的な表現ではなく、むしろ書くことに淫する筆致にも
しかし、何者かが血を流すようにして
暗がりで泣いている。
それは作者自身というより、作者の死後の分身かもしれない。
それだけに痛ましく、真に世界が泣かれている。
むこうから。こちらから。
「反世界の究竟」と帯にありますが、
反世界の「反」には、いのちを裏返す痛みがあり
死者の痛みにさえ貫かれています。

「すべての事後に、神が死んだのではない。すべての事後の虚に、悪魔がついに死にたえたのだ。

クレマチス。いまさら暗れまどうな。善というなら善、悪というなら悪なのである。それでよい。夕まし、浜辺でますます青む一輪の花。もう暗れまどうことはない。あれがクレマチスというならクレマチス。いや、テッセンというならテッセンでもよい。問題は、夕まぐれにほのかに揺れて、青をしたたらせるあの花のために、ただそれだけのために、他を殺せるか、みずからを殺せるか、だ。

讒言。日ごと夜ごと、うわごと、たわごとを発せよ。どのみち善魔にしきられる。」
                                                     (「善魔論」第三連、第四連)

「どのみち善魔にしきられる」とは、しかしこちらを叱咤する唾棄ではないでしょうか。善魔とは誰か。私にも、様々な顔ぶれが浮かびますが、しっかり憎まないといけないと心します。みんな自分のしどけない顔となって溶けてしまわないように。