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詩空間

河津聖恵のブログ。この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

8月16日付京都新聞「詩歌の本棚」

8月16日付京都新聞「詩歌の本棚」
                                                          河津聖恵 

 東日本大震災から五ヶ月。今詩の方向性は、大きく二手に分かれつつあるように思う。未曾有の悲劇を目の当たりにして、これまでとは全く違う詩の次元を見出そうともがく詩人たちがいる一方で、早々と詩の無力=比喩の死を断言してしまう詩人たちもいる。私は後者の「平静さ」に驚いた。彼らは総じて「3.11以後無理に書いてしまえば、野蛮な言葉になる」という危惧を表明するが、それは本当に実感から来るものなのか。アドルノの有名な、「アウシュヴィッツ以後詩を書くことは野蛮だ」というテーゼに倣って引き出された結論に過ぎないのではないか。たしかにフクシマもアウシュヴィッツもその悲劇性は言葉では捉えきれず、まして美的な詩語で表象化するなど「野蛮」以外何物でもない。だがアドルノの過激なテーゼは、じつは詩人を挑発しているのだ。詩が不可能にもかかわらず、いや不可能だからこそ詩を書き続けよ、と深く励ましているのだ。
 
 有馬敲『新編現代生活語詩考』(未踏社)は、生活語(「生まれた土地のことば、共通語に近い遠いに関係ない話しことば」)で書かれた詩を、万葉集の時代から現代までのスパンで考察する。現実に抗う庶民の言葉の生命力をあらためて感じさせられた。引用された詩で目を惹いたのは、原民喜の原爆告発詩「コレガ人間ナノデス」。
「オオ ソノ真黒焦ゲノ滅茶苦茶ノ/爛レタ顔ノムクンダ唇カラ洩レテ来ル声ハ/「助ケテ下サイ」/ト カ細イ 靜カナ言葉/コレガ コレガ人間ナノデス/人間ノ顔ナノデス」。
 これを含む「原爆小景」九篇中八篇はカタカナと漢字で書かれているという。なぜか。小説「夏の花」で原は、人間的なものが「抹殺された」風景の「妖しいリズム」や「痙攣」は、「片仮名で描きなぐる方が応はしいやうだ」と述べている。破壊の風景を目にして、未知の書法を直感したのだ。
 
 『香山雅代詩集』(土曜美術社出版販売)は、思索的な言葉で現実と自身との関係を模索し続ける詩人のアンソロジー。ある時は激しくある時は静謐に、思考と共に歩む詩行のリズムは、作者の能に対する造詣の深さから来るのだろう。知的に張りつめた言葉の地平には、戦争の悲惨な記憶と悲しみの炎が、濃く冷たく鎮められている。
「悲しむためではなく/あなたを/わたくしを/理解するために/円筒の曠野に 風をとおすために/世界のほんものの死地を 獲得するために/放してはならない/悲しみまで 解いてはならない//円筒形の世界の涯で/あなたの傘は/わたくしたちの傘は/いま/どのような雨を うけとめているのであろう/はじているのであろう」(「世界が円筒にみえたところから」)
 
 北島理恵子『三崎口行き』(ジャンクション・ハーベスト)は、人と人との関係を、そこにある空気を撫ぜるようにして巧みに描き出す。事物や光や風や音を、まさに言葉に溶かすように柔らかく象徴化しつつ、自身と他者とのかなしい距離を詩でしか描けない角度から捉えている。序文の代わりに置かれた詩「遠景」が印象的だ。
「わたしたちは/生まれる前の、海の水面のきらめきの話をする/幼い頃布団の中で見た、怖い夢の話をする/いまここにあるかなしみは話さない」
「いまここにある/かなしみは話さない」という人の生の根源にある礼節と優しさ。それこそが関係をゆたかにする源泉だと、この詩人はよく知っている。人と人、人と言葉は再び必ず繋がりうる、ということも。