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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

自由とはなにか

昨日「自由 次は熊野」という詩をアップしました。
これは先日、熊野市立図書館での朗読会に行くために乗車した
紀勢本線の中での記憶から書きました。
到着直前に「自由席 次は熊野市」と電光表示板に出たので、
ハッと私は思いました。
いったいなにをハッと思ったのか。
そのハッという感覚はとても新鮮でしたので、
そのときは解釈は出来なかったその感覚の根源を
この詩では私なりに(それこそ)自由に、
イメージを展開しようと書いた詩です。

熊野と自由。
中上健次がかつて熊野から日本を撃つと言っていたように、
そこに生きる人々が今も昔も抱き続ける
熊野の自然への畏敬の念と
歴史と文化への熱い関心
そしてそれらをつちかってきた人間の自由
(今年は大逆事件百年です。熊野には紀州グループとされた人々もいました)
への深い思い。
そこには今のこの日本の表層をおおう
歴史を忘れたフラットな
神経症的な言語と文化の状況を必ず撃つものがあると信じています。

神経症と書きましたが、
ラカン派の精神分析学者の斎藤環氏は、
言語を持ったがゆえに人間は宿命的に神経症であると言っています。
私の粗忽な理解によれば
私たちはこの世間の意味やイメージでだけ完結する「想像界」に
閉じ込められている。
そしてそこをみたす差異をいわば差別として特権化する
ことで
人間としての宿命的な不自由を
さらにみずから不自由にしていく。
つまりみずからをみずから追い詰めていく。
差異を差別へと。
誹謗中傷を自己正当化する「正義」へと。
それが人間すべてがくりかえしてきたおろかしい憎しみの根源でしょう。

だから宿命的にコトバというものを持つことで不自由な人間には
自由になるためにはこの愛と憎しみの想像界から超出する
たえざる努力が必要なのです。
大文字の他者である「象徴界」へ。
それが何であるか誰のものか分からない言語の総体へ。
そこにはこれまで言葉を使ってきた無限の他者たちの
自由への思いが響いているはずです。
コトバにはならなかった自由の思いが
(それはその者自身の死後かもしれないけれど)
コトバを超えた言葉にいつしか届いているはずです。
いつまでも私たちの心を真実の自由へと立ち戻らせてくれる詩や文学や他者の言葉とは
少なくともその反響を私たちに聞き届けさせてくれるものだと思います。

しかし「象徴界」への超出という自由を獲得するには
想像界」における私達自身の万能感を失ってみせる、という勇気以上に
克服しなくてはならないものがあるのです。
それは
私たちが否認してきた「現実界」を見つめることに挑むこと。
現実界」とはいわばトラウマのありかです。
フロイトのいう「不気味なもの」がうごめく次元です。
それは有毒物質のように心に沈殿し
想像界」を外側からつねにおびやかしている。
たとえば日本が近現代史において行ってきた残虐な行為とは、
まさにその「現実界」にいまだ影としてうごめいて
それを否認し無視する私たちを
いまだ苦しめていると思うのです。