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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

中国吉林省・延辺朝鮮族自治州をめぐって�H8月24日前半

翌23日はいよいよ延吉市に隣接する龍井市にあるImgp0520_2
詩人尹東柱の故郷である明東村へ。

大体1時間半の行程です。
朝7時半に出発し9時位に着きました。

龍井に入ってから明東村までの道がなかなか分からず
運転する林さんは何度も道行く人や車に尋ねてくれました。
この時だけでなく中国でちょっと驚いたのは、
「すみません」とか前置きもなく
道行く人にいきなり道をたずねてもそれが普通であるらしいということ。
この日も林さんが運転しながら
追い抜かれたタクシーに向かって窓から大きな声で呼びかけたらImgp0519
少し行ってからちゃんと止まって応答してくれました。
スピードを出しながら声をキャッチしたのですね。
この国に来てからずっと感じていたのですが、
このように人と人との間にはみえない電流が流れているようなのです。
互いの反応速度が、以心伝心、とても速いのです。(一方で口げんかもよくしてますが、けんかするほど仲がいいというような。)

次第に明東村へ近づいていきました。

ふと特徴のある大きな岩が見えてきました。Imgp0524

丁章さんか愛沢さんが
「あれが立岩(ソンバゥイ)」だと教えてくれました。
そう、愛沢さんが翻訳された『空と風と星の詩人 尹東柱評伝』(宋友恵著、藤原書店)にも出てくる
明東村のシンボルとも言える岩です。
南から豆満江(トゥマンガン)を越えてここへ移住してきた朝鮮人たちは
この岩を目印にしてやってきたそうです。

そう、明東村は、
移住してきた朝鮮人たちによって一気に作られた村なのです。
その日付も明確です。
とても不思議な生まれ方をした村です。

そもそもこの村が属する北間島(プッカンド)は
満州が清国に属し、朝鮮も国から民が出て行くことを禁じていたために
なかなか満州へ行けない朝鮮北部の人々が
豆満江にある『間の島(サイソム)』に行くという言い訳をして舟を出し、ひそかに川向こうの空白の地となっている先祖の土地にわたって農作業をし」て開墾した地域です。
そのようにして次第に畑を広げていきました。
そしてついに1899年2月18日に
豆満江沿いの都市である会寧(フェリョン)、鐘城(チョンソン)などに居住していた儒学者たち四つの家門の本家と分家あわせて22家の家族たち、合計141名の大移民団がこの日いっせいに故郷を離れ豆満江を越えた」のです。

みんなで一斉に越境して作った村。
それだけに村人の結束、同志的な意識、新たな共同体を創造しようという意志はつよかったようです。
そのために村の人材を育成しようと教育を大変重んじました。
「土地をみなで分配するとき、まず優先的に学田をとりのけておき、それによって教育基金をつくりだすということから彼らの移民の最初の行為は始まったのである。」
その結果「明東書塾」が生まれ
やがてそれは尹東柱や従兄の宋夢奎(ソンモンギュ)や後に牧師となる文益煥(ムニックァン)が通った「明東学校」となります。

また当初儒教の村だったこの村はやがて全村あげてキリスト教化しました。
キリスト教は明東村に赴任してきた先見的な教師が
新学問と共にもたらしたものです。
また一方で1907年に日本の朝鮮統監部間島派出所が出来ると
間島は清国と日本の両方に苦しめられるようになりました。
そのためにキリスト教が「政治的避難所」として迎え入れられたのではないかと
宋さんは同書で推測しています。

いずれにしても結果として
東柱の両親と東柱自身もクリスチャンとなります。
そして以上のような故郷の歴史的事情が
彼の詩の中に
「民族詩」でもあり「抵抗詩」でもあり「キリスト教詩」でもある複雑な要素をもたらしました。
もちろんそれ以上にリルケなどの影響を受けた詩人は
現実や歴史を超える詩の純粋空間Imgp0530
を作品の中に実現しようとしました。

さて、その明東村に着きました。

まずは尹東柱記念館に入りました。
その近くに韓国からと見られる観光バスが止まっていたのでちょっと驚き。
この記念館にも韓国からの資金援助があるとのことです。
敷地の多くで工事が行われていました。
これは朝鮮族自治州60周年事業の一環でしょうか。

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なお、以下、ブログに写真がたくさん入ってしまい配置が乱れています。写真と文章が合っていません。どの写真の説明かは指示しますので、何とか対応させて頂ければさいわいです。

一番上の写真。入口には復元された明東教会(実際この位置にあったのかは分かりません)。その前には白い十字架が揚げられていました。東柱の作品「十字架」のイメージにぴったりです。(この作品は、この後で向かう東柱の墓前でのミニ朗読会で丁章さんがご自身の訳で読まれます。)

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上から2番目の写真。庭には趣向をこらしたいくつもの詩碑が。東柱の原稿の文字そのものが刻まれています。

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上から3番目の写真は復元された明東学校です。本来あった場所はここからもっと離れています。黒板に「学級当番はソンモンギュ、東柱は・・」などと、誰かがいたずら書きした文字がそのまま残されています。

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上から4番目の写真は東柱の生家です。東柱の家は村でもかなり裕福な家だったようです。
だから詩人は平壌やソウルの学校にも行け、また日本にも留学できたのでしょう。東柱は第一次大戦中の1917年に生まれましたが、戦争中のヨーロッパの「穀物倉庫」の役割を果たしたのがこの満州だったのです。大豆栽培によってもともと裕福だった東柱の家もずいぶん潤いました。

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上から5番目の写真。生家ではまず祭壇で東柱にご挨拶。

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上から6番目の写真。一番広い部屋です。庫裏と居間をかねたような部屋。ここで家族が団らんしたのでしょうか。

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上から7番目の写真。この部屋などは小学生時代の東柱の勉強部屋だったのでしょうか。様々に想像をかきたてられます。

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一番下の写真。教会内部です。

教会の展示室にはたくさんの東柱の写真がありました。

さて次は明東村を散策してから、東柱の墓前へ向かいます。