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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

2016年2月1日京都新聞掲載「詩歌の本棚/新刊評」(苗村吉昭、斎藤恵子、中西衛、紫野京子各氏の詩集を取り上げました)

 苗村吉昭の評論集『民衆詩派ルネッサンス』(土曜美術社出版販売)が興味深い。「民衆詩派」とは大正初期に興った「詩壇におけるデモクラシー運動」。平易な口語自由詩で、生活や社会や自然をうたった。「後のプロレタリア文芸運動に比べて、理想的で曖昧」だったが、「詩によって人間の精神を向上させ理想世界の実現を行おうとした彼らの試みは再評価されてよいはずだ」と苗村はいう。面白いのは、民衆詩派白鳥省吾・福田正夫と、芸術派北原白秋との論争。まず北原が白鳥の詩を散文に書き下ろし、これが「真の自由詩」かと問題提起。それを受け福田は芸術派の趣味性を批判し、白鳥は「社会性ある自由詩」を抑圧する白秋に、立ち去れとまで告げる。今の詩壇では考えられない激しいやり取りだが、この「民衆詩派」と「芸術派」の対立は、九十年以上経った現在も「社会派」対「言語派」として存続する。例えば最近震災詩をめぐり同様の論争が興ったが、歴史を振り返り深まることはなかったのが残念だ。過去の詩人たちの情熱に学びたい。

 苗村は詩集『夢中夢』(編集工房ノア)も上梓した。「夢中夢」とは「夢の中で人に夢の話を説くこと」という意の禅語。「詩もまた夢の中で夢を語るように固定的実体のないものですが、それだからこそ詩もまた真実の世界を表象したものであるといえます」(「あとがき」)。「夢語り」である本書は散文的だが、論理的で機知に富む。現代の民衆詩の試みともいえよう。居住地滋賀の地名や伝説をモチーフにした詩もある。

 斎藤恵子『夜を叩く人』(思潮社)も夢を語るが、作者の言葉は感覚を無意識へ澄ませつつ、夢と覚醒のあわいを進む。本書に充ちる原初的な不安と死者たちの気配は、現実よりもリアルな感触である。表現の巧みな深まりによって、ひとの生がむき出され慈しまれ、詩が生成していく。掉尾を飾る「オルガン」は、夜を潜り抜けた珠玉作だ。

「オリーブ色の服を着たひとが/オルガンを弾いていました/夜の部屋です/青紫の大きな譜面台があります/近づいて見たら/

四角な青空でした/花のように星が降っています/どこかで/生まれたひとがいるのです」(全文)

 中西衛『波濤』(竹林館)は、京都現代詩話会で学ぶ作者の二十数年ぶりの詩集。身辺の出来事を主題にした詩が多いが、情景は流動的で透明感がある。長く京都に住む作者の故郷福井の波や風が不可視の力となり、詩を書かせているのか。

「わたしの好きなのは/初夏の風/走る特急電車の/窓に飛び込んでくる映像//取り入れまえの/ひろびろとした麦畠のうえを/さっそうと吹き抜けていく一陣の風/幾重にもかさなって/靡く麦の穂/横に 斜めに/靡いては押しかえし/たくみにウェーブする//電車の中であることを忘れ/ひとしずくの無限を/癒やしてくれる初夏の風/さわやかに伝わってくる」(「ウェーブ」)

 紫野京子『切り岸まで』(砂子屋書房)は第八詩集。愛する人を喪った真闇にひととき射し込む、詩の光が美しい。癒えない悲しみに言葉は無力であっても、詩を書く行為は新たな地平を照らし出すのだ。詩とは根源的ないのちの行為か。

「今眼前にあるかたちが/この世にある限り/危うい均衡で存在を語っている//花よ 鳥よ/木々の葉擦れよ//天も地も等しく茜に染まり/海の果てまでも雪崩込む/夕陽の祝祭///宵闇の朧のなかへ/やがてそのかたちは霞んでゆく//泣きたくなるほどの黄昏に身を委ね/立ち尽くす 幾許かの時」(「花の言葉」)