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詩空間

河津聖恵のブログ。この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

映画『11.25自決の日─三島由紀夫と若者たち』(若松孝二監督)

映画『11.25自決の日─三島由紀夫と若者たち』(若松孝二監督)をみました。M1
少し前のことになるので
印象がかなり薄れてしまったのですが、
楯の会結成前後から自決までを60年代の激動の時代状況と織り交ぜてリアルに描いた映画です。

三島の自決は私も小学生の時に衝撃を受けた事件でした。
あの市ヶ谷のバルコニーの内部で、そしてそこに至る前に何があったかを
今回初めて知ったことが多いです。
資料を読みこなした上での映画化なので、相当事実に沿ったストーリーでしょう。
三島役の井浦新は迫真の演技でした。
バルコニーでの演説は、実際人通りのある静岡市役所で撮ったとのことですが、
思いがけず「日常にかき消されまいと大絶叫した瞬間、自分の中に大きな渦が巻き起こった」そうです。
その迫真の演技にも誘われ色々考えさせられました。

三島由起夫は流麗な文体やエロスもタナトスも含めたその深い世界観に
かつて私も傾倒したことがあり、
気に入った表現は書きだしカードを作ったこともあります。
とりわけ生と死のあわいを微妙に行き来するような比喩が素晴らしいと思いました。M2
それはたんなるイメージを介しての比喩というより
日本語が日本語に響きあうような、合わせ鏡のような繊細な美しさです。
これは相当な読書量と素養だけでなく、日本語への深い思いがないと不可能な位のものです。
何よりも自分の内面を感受する力が卓越していることを感じさせます。
詩もたくさん書いていますが、散文の方がもちろん素晴らしいです。

この映画では
そうした卓越した文学的な知性や繊細さもところどころかいま見えるのですが、
やはり焦点は11.25です。
最初から三島由起夫は私には届かない時空に存在していました。
史実的には不確かなところはないのでしょうが、
文学者としての陰翳は余り感じられませんでした。
井浦新のすっきりとした顔立ちのせいでもあるのでしょうか。
最後にクレジットで全作品名が流れはしたのですが、
たぐいまれな文学者がなぜ激しい行為者にならざるをえなかったのかは
この映画では解明されていません。
そのためにはその文学の根底にあるタナトスあるいは真実の生への欲望を描くこと、
あるいは文学を中心にすえた世界観や戦争観において解き明かすことが
必要なのではないでしょうか。
もちろんそれだと長大な作品になってしまいますが。

ただこの映画からは、
三島由紀夫
日本に改憲し、自衛隊国防軍にせよと訴えながらも、
再びかつてのような軍国主義の現実の再来を望んでいたのでは決してない、ということは
感じ取れました。
三島自身は病気のために戦争には行かなかったのですが、
戦争がいかに人間の醜いエゴをむきだしにするものであるかはもちろん鋭敏に感じていたはずです。
そして一方で反戦を唱える人に時としてみる、いわば自己欺瞞もみてとっていたでしょう。
一億総懺悔といいながら
無数の死者を振り返ることなく生き残ったことに自省や感謝もせず、
ただ通俗やエゴや金銭にひた走る国家の戦後の現実に、
作家は文学と自決という永遠の美を対置せずにはいられなかったのです。

暴力は勿論いけないことですが、
敗戦に向き合わない戦後の社会をいさめるため自決を選んだ三島の純粋さを、
今の私たちの誰がやすやすと否定できるのだろうかとも思います。
また、現行憲法を護るべきだという人々もいまだ多くいて、
それは心強いし正しいことだと信じますが、
その理由がもし「このまま平和でいたいから」では何か違う気がします。
三島の行為に照らせば、それがかつて一億総玉砕の代わりに日本が選びとったものであることを
一人一人がもっと痛切に想像し、
その痛みから語っていかなくてはならないと思うからです。
もちろん、中国や北朝鮮が怖いから改憲してしまえ、
などというのは戦争の壮絶な苦しみの果てに亡くなった死者たちの声に耳を澄ますことを忘れた、さらなる冒?です。