日曜日の辺見庸さんの番組が今からとても楽しみです。
このブログで3月19日にアップした
北日本新聞掲載、共同通信配信の「震災緊急特別寄稿」の文章は
アクセス記録から行き着いたURLで発見しました。
ネットとはありがたいもので、新聞に掲載されてすぐに
読むことができたのでした。
しかしアップして以降、
この記事へのアクセスが毎日かなりの数にのぼっています。
くる日もくる日も、なかなか途絶えません。
なぜか、と考えます。
恐らく、今この社会の生な無意識は
辺見さんの言葉のような
瓦礫の痛みから出発する言葉こそを必要としているはずです。
危機がつのればつのるほど
どうしてだか
この災厄の痛みを引き受けられない
うすっぺらな「他人の」言葉ばかりが蔓延してくるのにはげしく苛立って。
長年の無関心や無感覚の毒が回った言論状況には
もはや嫌悪しか感じません。
復興や再生などとこともなげに言ってすませ
自分の本当の願いや欲望からも眼をそむけ
人形のように、人形の言葉を語りつづける人々はおぞましい。
人形だから何の罪もないんだよとでもいうような「無垢」な口調はけがらわしい。
(もちろんすべてに真剣に向き合うことを避けてきた
ポストモダン以降の私たちの文学や詩にもまた
その責任はあると思います。)
だからこそ今
ことの本質を神話的かつ現在的につかみだす
辺見さんのような果敢で繊細な詩人の言葉が
多くの鋭敏な人々にはげしくもとめられていると思えてなりません。