もちろん「関係性による自由」とはあらかじめあるものではなく、
「ひとりの自由」の限界と不自由を痛感した後に、
ようやくもとめられるものだと思います。
その限界と不自由の自覚は、
何らかの精神的な危機において滲むように生まれてくるのでしょう。
2004年に思いがけない病にかかりました。
精神的に未熟な私は大変ショックを受けました。
それまでもしかしたら自分は一生年も取らず、
何の変化もあるはずがないとさえ思っていたのかもしれません。
果てしなく落ち込んでしまいました。
それまで生き甲斐だった詩も、
たちまちにとても遠いものになりました。
それまで自分が書いた詩も、
心の中で全部灰のようになってしまいました。
まったく書けない状態が一年以上続きました。
死の不安の前に書く力はやすやすと敗北しました。
詩を書いたり読んだりすることは
残念ながら自分にとっては、病を乗り越える力たりうるものではなかったのです。
なぜそんな弱いものだったか。
恐らくそれまでの自分の詩に対する考えが、
非常に孤独な自分の中に閉じこめられていたし、
自分がどう生きたらいいのか、どう生きるべきなのか、という切実な問題と、
じつは離れたところにあったからでしょう。
「生」と幾度も書きながら生から遠く、
「死」とこともなげに記して死とたわむれ、
詩に対し、生命の次元で対峙していなかったのでした。
詩と生命。
それは次元が異なるものでありながらも、
深く交錯するだと思います。
生命が他の生命との関係へ無限にひらかれるように、
詩はコトバという大きな他者との、
「私」の果てしない葛藤と共鳴であるのだ、と。