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詩空間

河津聖恵のブログ。この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

辺見庸『水の透視画法』(三)

掉尾を飾る「非情無比にして荘厳なもの」というタイトルの文章は
3月11日の大震災で
作者自身の生まれ故郷(宮城県石巻市)が津波に呑み込まれる悲惨な映像を目の当たりにしてから書かれたものです。

このエッセイをネットで見つけて読んだ時
私は胸につまっていたものが、途方もなくほどかれていく気がしました。
言葉にならないというより
言葉そのものの無力を思い知らされた悲惨な光景の数々に、私は
もう何も取り返しが付かないじゃないか、語ることなんて無意味だ、止めたほうがいい、とさえ
どこかで思いつづけていたようです。

しかしたまたま読むことができた辺見さんの文章は
まだ言葉には可能性があるのだという、靜かでありながらも痛切な希望を私に与えてくれました。
この文章はあの津波の地獄絵図を透かしながらも
うそのように(あるいは冷たい恩寵のように)波が退いたあと
散乱する瓦礫が非現実的に輝きだした未知の風景を
人間のぎりぎりの未来への可能性として見せ直してくれます。

もちろん可能性や未来といっても、それは危険と背中合わせにあるものであり、瓦礫を素足で歩み続けるような痛みをおそれず、愛と誠実とやさしさをつらぬく不断の努力が必要なのです。

「愛や誠実、やさしさはこれまで、安寧のなかの余裕としてそれなりに演じられてきたかもしれない。けれども、見たこともないカオスのなかにいまとつぜんに放りだされた素裸の『個』が、愛や誠実ややさしさをほんとうに実践できるのか。これまでの余裕のなかではなく、非常事態下、絶対的困窮下で、愛や誠実の実現が可能なのか。家もない、食料もない、ただふるえるばかりの被災者の群れ、貧者と弱者たちに、みずからのものをわけあたえ、ともに生きることができるのか。すべての職業人がやるべき仕事を誠実に追求できるのか。日常の崩壊とどうじにつきつけられている問いとは、そうしたモラルの根っこにかかわることだろう。」

「わたしはすでに予感している。非常事態下で正当化されるであろう怪しげなものを。あぶない集団的エモーションのもりあがり。たとえば全体主義。個をおしのけ例外をみとめない狭隘(きょうあい)な団結。歴史がそれらをおしえている。非常事態の名の下で看過される不条理に、素裸の個として異議をとなえるのも、倫理の根源からみちびかれるひとの誠実のあかしである。大地と海は、ときがくれば、平らかになるだろう。安らかな日々はきっとくる。わたしはそれでも悼みつづけ、廃墟をあゆまねばならない。かんがえなくてはならない。」

これらの文章は胸に深く入ってきます。そしてすでに実際起こっている非人間的な事態を思い起こさざるをえません。
私たちがあらたに生まれ直すために実践すべき「愛や誠実ややさしさ」とはうらはらな出来事が各地で起こっているのです。
宮城県知事が炊き出しを行った被災地の朝鮮学校への補助金をカットしたことや、この機に乗じて大阪府知事が「君が代起立条例」を十分な議論もなく成立させたこと、福島原発による被曝から政府は子供たちを守ろうとしないでいることなど、すでに枚挙にいとまがありません。

自然を畏れ他者をうやまうことを故意に忘れ、空疎な自己愛と自己欺瞞へと堕落しきった社会。
人間的悲惨が忘れられ、ひととして悩むことを忘れ、富者と強者がただ貧者と弱者の犠牲のうえにのみ肥えてふとり、互いが互いをそこないながら生きる世の中──

今、狂った世界は私たちの思いや言葉を超え、もはや自走しています。
放射能という透明な悪をふりまいて暴走する原子力発電所のように。
いまだ収束を見ない途方もない原発事故は
はからずもそうした社会の危機的事態のあからさまな証明、
あるいは戦慄的なメタファーではないでしょうか。

けれどそのような現実にもかかわらずなお、闇の中からの蛍火のように、この一書の言葉は戦うことを決してやめない。辺見庸という詩人は、詩と沈黙による希望を諦めてはいない。世界は闇に包まれても、そのようにいまだ書くひとがいる、書かれることばがある、というそのことこそが、私にとっても希望、何よりも自分自身のことばが勇気づけられる希望なのです。