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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

劇団タルオルム「金銀花永夜(クムンファヨンヤ)」(二)

この演劇についてどこから書いたらいいのでしょう。Image659
色々なシーンや台詞が、今頭に点滅してやみません。

「むかしむかし、私たちはただひたすらに生きた。
ふり返れるほどの昔、昨日のように語れるほどの昔
一瞬で時代と歴史に変えてしまえるほどの昔」

冒頭で、ヒロインのモノローグで語られる歴史は、阪神教育闘争です。
警察による朝鮮人に対する弾圧の、騒然とした現場の、象徴化されたシーンから始まります。
舞台には机と椅子が倒れていますが、
それは過去から現在まで、朝鮮学校が置かれた状況をシンプルに、しかし鋭く象徴しています。
少女時代のヒロインが、闘い傷ついている。
人々は逃げまどう。
銃声がとどろく。
「われわれは朝鮮学校を認めない!」と繰り返される無慈悲なアナウンス・・・。
すべては象徴的に描かれていますが、
イメージから恐怖は十分喚起されました。

学芸会の練習のシーン。新米の先生が太鼓を叩き、少女が踊っています。
民族文化を伝える唯一の演目なのです。
しかし辞めた以前の先生に習いたいと少女は駄々をこねています。
「あなたが次のことを学ぶために、ソンセンニムはソンセンニムを卒業したの」
とたしなめる少女の担任である、ヒロインの女性教師の言葉が印象的でした。

少女の名は銀花と書いてウナ。
先生の名は金花でクムファ。
「二人合わせて金銀花(クムンファ)になる。忍冬花といって、寒い冬をたえしのぶ花なの」
今は苦労があるけれど、力合わせて生き抜いていこうという、メッセージです。
それはこの劇のタイトルにこめられた真意です。

職員会議でソンセンニムたちは苦悩していました。
学芸会で「民族色がつよい演目は避けてほしい」という意見が大多数だと報告がされた時の、校長先生のひとことには、とても考えさせられました。
「外の文化をとりいれて広がろうとするならば、分かる。けれど今は外の文化で、自分たちに蓋をしている。」

テレビからの「北朝鮮」をめぐる報道がきこえる子供部屋のシーンで
ヒロインの孫が素知らぬ顔で本をめくっている姿は
見ていて辛い気持がしました。
帰り道でいじめられたのかと祖母に訊かれて、
「怖かったか」「うーん、でもたまにいわれるで」と言って、孫は巧みに話をそらす。
そのけなげさに胸をつかれました。

以前不良だったから、朝鮮学校を途中でやめ、日本学校を通った、ヒロインの娘婿であるアボジ
学芸会のためにと、子供の前で嫌がられながらも一人漫才をします。
「娘を可愛がることで、色んなものを取り戻そうとしている。何でもいいから子供たちを喜ばせたい」というその気持は、
過去から現在までの朝鮮学校のソンセンニムたちの気持とまったく同じです。

還暦を過ぎたヒロインのアボジもソンセンニムでした。
「何もないところから始まった。校舎も教科書も手作り。屋根もなかった。
ちょっとでも字を知っている人が字を教えて、歌を知っている人が歌を教えて」
「ソンセンニムも手作り。子供も、ソンセンニムをやっているアボジと一緒に字を覚えた。」
「うちが教えた子がソンセンニムになって、その子が教えた子もソンセンニムになって」

しかしとりわけ胸を打ったのは、酒席で校長先生が、「野性の朝鮮人」と発言し、
周囲にたしなめられながら言った台詞です。
「ウリハッキョとは、回りに気をつかうためにだけ子供に教える場所ではなくて、
子供たちが野性として誇らしく羽ばたける方法を、考えるところでしょう?」
私はこの言葉にとても感動したのでした。
そうです、周囲の日本社会に気を使ってちぢこまって、
負の意味でのマイノリティの「養殖の朝鮮人」になる必要なんてまったくない。
マジョリティ社会に自閉した、他者アレルギーの「養殖の日本人」が、この社会の未来にとって必要でないように。

そうです。「野性の朝鮮人」と「野性の日本人」が出会うことこそが、今必要なのです。
私は鋭く射られる思いがしました。
ならば日本人の方も、
日本人にとって野性とは何か?を今考えなくてはならないのです。
朝鮮人はみずからの野性を、ウリハッキョで取り戻すことができるでしょう。
しかし日本人はどうなのでしょうか。
みずからを本来のおおらかな野性へと解放する方法を、教育や家庭という現場において、忘れているのではないでしょうか。
この問いかけは、
今後、朝鮮学校の除外の問題を考える時にも、大きなヒントになる気がしています。

死ぬ前にヒロインは、Image658 いけないと思いながらも、机に自分の名前を彫りました。
学校の備品を傷つけることがとてもいけないことであるのは、
それが今いるみんなの共有物であると共に、朝鮮学校を支えてきたすべての人々からいただいた物であるからです。
しかしヒロインは最後に名を刻みました。
いつか誰かの心に刻まれたいと願いながら。
個としての名という以上に
かつても今も
子供たちが言葉一つを覚えるための場所を守って闘った人たちがいた、という証に。

結局ヒロインのソンセンニムは死にますが、
その民族の文化への意志は
学芸会という小さな一隅で踊る少女の姿に、たしかに受け継がれました。

ラスト、舞台は暗転し、ふたたび倒れている机と椅子だけになります。
ぼろぼろの闘いの姿の少女時代のヒロインがあらわれ
机と椅子をきちんと立てて、劇は終わります。