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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

梅宮神社に梅を観に行きました

昨日、梅宮神社(京都市右京区)に梅を観に行きました。Photo
このところ寒さがぶり返してきたせいか、
あいにくまだちらほらという感じでした。

しかしまだ蕾をひらいたばかりの幼い梅の花もまたいいものです。
初々しくかわいらしい。
また、例年桜ばかり見ているので、梅をこんな風にじっくり見たのは久しぶりかも。

昨春、大震災の後に花開いた桜は
いつもよりも白く大きく思えました。
生者を茫然と見つめる万朶の死者のまなざしのように。Photo_2

梅の、花弁から溢れんばかりの雄しべもまた、長い睫のようです。
梅の花もまた古えの人々のまなざしのようです。

中上健次の炯眼な一節を思い出します。

「説明すると、花って何なのかというと、花なんて元々なくて、最初は僕が思うに稲だと思うんです。稲作の稲を持ってきた。それを見て、占いをしたと思うんです。占いって何なんだというと、人生が何とかじゃなしに、そうじゃなくて、この花が実をつけるかどうか、それを見て、実をつけなかったら古代の人間は蓄積できないわけでしょう。みんな飢えて死んでしまう、大変だよ。もしこれが黒ずんで。花が実をつけないような状態だったらポロッと落ちちゃう。みんな、部族全部飢え死にしてしまう。あるいは部族の中で殺し合いが起こったり、様々なひどい状態が起こるだろうということなんですね。稲をもとにしていたんですね。そこから転化したものなんです。桜の花だったら、稲作の人間たちが稲の勝利みたいなものを歌った時代があったでしょうね。(・・・)あるいは、いつ攻めてくるのか、占いとかを相手ににしないようなそういう連中が攻めてくる恐れとかね。たぶん、恐れの方が強いでしょうね。そういうものが花に籠もっている」(『現代小説の方法』)

そう、花の美しさとは、じつは対象化できる美しさではないのです。
人間の根源的な恐れと祈りが
まなざしのような花の中でいまだ入り交じっているのです。
誰もが飢えずに、殺し合わずに無事に生きていけるようにという
すべての人の思いが。